岡山県の焼きもの(陶磁器)・虫明焼の書籍と展示場所
むしあけやき 虫明焼 むしあげやき
むしあけやき
「虫明焼の栞(むしあけやきのしおり)」に、お立ち寄りいただき ありがとうございます ☆
私・蓼 純 (たで じゅん)が、岡山市から発信しています。
「今月の抹茶碗」 と 「蓼純Collection」
は、
私がもっている虫明焼についての、簡単な解説と写真を載せています。
焼きものの展覧会なども、「今月の抹茶碗」の頁で案内しています。
「虫明焼について・蓼純の虫明焼半可通」 は、
虫明焼の歴史、作品、陶工(作家・陶芸家)のことなどを、
池上千代鶴(いけがみちよづる)、桂又三郎(かつらまたさぶろう)の研究成果を基に、
私・蓼純の見方・考え方を、お話ししています。
「虫明焼の年表」 は、
「虫明焼について・蓼純の虫明焼半可通」の内容を、年表に落としています。
掲示板を作って、貴方の収集品の自慢、このHPの感想・質問などの書き込みを、
していただこうかと思っていたのですが、大変そうなので止めました ☆
一方通行になってしまいますが、お会いした時に、いろいろと教えてください ☆
このHP「虫明焼の栞」中の人名は、すべて敬称を略させていただいています。
なお、参考文献を下記に記載して、敬意を表すると共に、皆様に紹介したいと思います。
しかし、発行部数が少なく、発行年も古くて、入手困難な書籍が多い事をご了承ください。
ええ、入手困難な書籍が多いので、このホームページを作りました。
このページから入られた方へ ; ホームは「虫明焼の栞」です。
@ 備前虫明焼 桂又三郎 木耳社
A 増補改定備前虫明焼 桂又三郎 古備前研究所
B 虫明焼の記録 池上千代鶴 池上淳之編集
C 古虫明・現代虫明焼 黒井千左 邑久町虫明焼作陶会
D 岡山の自然と文化 7&11 岡山県郷土文化財団
E 江戸期の茶陶 杉浦澄子 淡交社
F 真葛 宮川香齋 毎日新聞社
G 宮川香山と横浜真葛焼 二階堂充 有隣堂
H 真葛 宮川香山展 横浜美術館
I 邑久町史 文化財編 邑久町史編纂委員会
J 原色陶器大辞典 加藤唐九郎 淡交社
K 日本やきもの集成 9山陽 平凡社
L 帝室技藝院 眞葛香山 田邊哲人 叢文社
M 宮川香山展 横浜真葛焼 読売新聞社
N 岡山の焼物 岡山文庫3 桂又三郎 日本文芸出版
以上が主な書籍です。
私・蓼純は全部揃えていますが、岡山県立図書館などで、
@ 備前虫明焼か、A増補改定備前虫明焼のどちらかを、見ていただければ良いと思います。
N岡山の焼物は、内容は結構充実していますが、文庫本ですので値段は安いです ☆
それでは、虫明焼を展示している場所を紹介しておきます。
岡山県瀬戸内市邑久町尾張(せとうちしおくちょうおわり)の、瀬戸内市中央公民館です。
虫明焼の収集家・太田巌(おおたいわお)が、集めたものを邑久町に寄贈しました。
それを常設展示しています。
I邑久町史文化財編に、太田巌の収集品を、
「太田コレクションと虫明焼」と題して、全点掲載しています。
以下は 「虫明焼について・蓼純の虫明焼半可通」 の
Back number 〔第1回〕 から 〔第50回〕 までです。
〔第1回〕 2003.10.10.
「虫明焼について・蓼純の虫明焼半可通」の頁です。
私・蓼純(たでじゅん)が、虫明焼の歴史、陶工(陶芸家・作家)、製品(作品)、
その他虫明焼に関することを、いろいろと、お話していきます。
虫明焼は、岡山県邑久郡邑久町虫明(おくぐんおくちょうむしあげ)で造られた焼きものです。
虫明は、岡山駅から東方向に直線で25km位のところに有ります。
車だと、ブルーラインの虫明ICを降りた所です ☆
風光に恵まれた地であり、昔から詩歌に詠まれています。
いまは、牡蠣(カキ)の養殖が盛んで、虫明の海には、たくさんのカキ筏(いかだ)が浮いています。
また、蜜柑(みかん)、葡萄(ぶどう・ピオーネ)などの果実も多く栽培されています。
虫明瀬溝の対岸には、邑久郡最大の島・長島があり、
ハンセン病の国立療養所・長島愛生園、邑久光明園があります。
それでは、虫明焼の起源・創始期からです。
虫明焼は、文政元年(1818年)頃に、今吉吉蔵(いまよしよしぞう・1784〜1866年)父子が、
虫明池奥に窯を築いたのが始まりだ、という説が有力です。
今吉吉蔵は、地元・虫明の人です。
いまも同地に、墓(慶応2年8月9日)が残っています。
この窯は、純然たる民窯ではなく、半官半民として営まれていたようです。
1818年頃というのは、ジャスト1818年では無いということです。
有力というのは、他の説も有るという事です。
虫明焼の歴史は200年くらいだと、おおらかに捉えてください ☆
創始期というものは、どこの窯でも古く言いたがるようです。
「虫明焼は今から300年前・・・」と書かれた解説書、パンフレット等もあります。
それは、それでいいのでしょう。
虫明は、岡山藩家老・伊木の陣屋町で、虫明上町が武家屋敷でした。
お庭焼きを、一時的に小窯で焼いていた期間を含めると、300年位前になるのでしょうか。
しかし、私・蓼純は、文政元年(1818年)頃の創窯説をとります。
虫明焼の創窯について、詳しく知りたい方は、
池上千代鶴(いけがみちよづる)の、[虫明焼の記録]を見てください。
数十ページを費やして、詳しすぎる位に書いています。
桂又三郎(かつらまたさぶろう)も、[備前虫明焼]・[増補改定備前虫明焼]に
虫明焼の創窯について、詳しく書いています。
なお、「むしあけやき/虫明焼の栞」にも記していますが、私・蓼純のHP「虫明焼の栞」は、
池上千代鶴、桂又三郎の研究結果がベースとなっています。
この二人ほど、虫明焼を研究された方はいませんし、これからも出てこないと思っています。
池上千代鶴、桂又三郎両氏の虫明焼研究の熱意・成果を、
このHP・「虫明焼の栞」で、少しでもお伝えできれば良いのですが・・・
話を、もとに戻します。
文政〜天保のころ、岡山藩庁に備前窯元一同連署の訴状が出ています。
備前焼(伊部焼)に似ているものも、焼いていたために、
備前焼の窯元から、「専売を侵すもの・・・」として数回訴えられています。
備前焼が御国焼として、藩の特別の保護を受けていた時代です。
窯主の今吉吉蔵は、備前焼(伊部焼)模造の罪科に問われました。
俗に言う備前焼類似事件(虫明焼物一件・ニセ備前焼事件)です。
このような事件もあり、天保13年(1842年)に、虫明焼は廃窯となってしまいます。
そこで、岡山藩の筆頭家老であり、大茶人の伊木忠澄(いぎただすみ・伊木14代)
=伊木三猿斎(いぎさんえんさい・1818〜1886年)は、b器である備前焼と全く異なる、
京都風の釉薬(ゆうやく)の掛かった焼きものを、虫明で造らせようとしたわけです。
清風与平(せいふうよへい・1803〜1861年)を、京都から、虫明によんでいます。
初代の清風与平です、名工です。
清風与平は京都の陶家。号は梅賓。享和3年(1803年)に金沢に生まれた。
文化12年(1815年)京都に出て仁阿弥道八の下で陶技を学ぶ。
文政10年頃(1827年)五条坂に開窯して青花磁、真白磁、金襴彩画などを焼成した。
弘化4年(1847年)3月に伊木三猿斎に招かれ、虫明焼の工人に技を伝え10月に京都に帰る。
清風与平は、虫明焼に京焼の息吹を吹き込みました。
弟子二人と虫明に窯を築き、陶磁器を制出したが、短期滞在のため作品は極めて少ないです。
これが、本格的な茶陶としての虫明焼のはじまりです。
太平逸人も、[阪急美術] 第22号 昭和十四年七月三日発行の「眞葛原と虫明」に、
「この伊部窯との對立關係が、C楚虫明陶を生むに至つた起源となつたのであらうかと思はれる」
と、著いています。
そうですね。虫明焼が、亜備前焼に成らずに、いまの虫明焼(清楚虫明陶)になったわけです。
という事で、今回は終了いたします。
次回も、清風与平のことについて、もう少しお話していきたいと思っています。
なお、「蓼純Collection」のページに、清風与平作の、菓子器(蓋物)を載せています。
ぜひ、ご覧になってください。
〔追記〕
虫明焼の起源・創始期について、文政元年(1818年)頃の創窯です。
と、お話いたしましたところ、
某虫明焼研究・愛陶家から、「創窯期はもっと古い」
と、コメントをいただきました。
「虫明焼の栞」は、虫明焼研究家・池上千代鶴と桂又三郎の説に基づいて、
私・蓼純の考えを、お話しています。
私・蓼純も、生まれていませんので、創窯年が絶対正しいとは言えません ☆
岡山県瀬戸内市邑久町公民館に、虫明焼展示室(太田コレクション)があります。
その虫明焼展示室の入り口に、「虫明焼は、文政年間(1818〜1829)に窯を築き、今吉吉蔵が
日常雑器を焼いたのがはじまりといわれている・・・」と、虫明焼の案内板に書いています。
他の資料を見てみます。
[邑久町ふるさと紀行]という冊子を、地元の邑久町郷土史クラブが、
平成15年(2003年)2月に刊行しています。抜粋させていただきます。
「虫明焼の創始期であるが、伊木家手許道具帳(蔵帳)によると、文政2年(1819年)9月、虫明
新焼と書いた記録が残っており、このころと考えられている。当時、池奥(上町)に大・小二つの
登り窯が築かれ、小窯の方が御庭窯で茶陶、大窯は民窯で日常雑器を焼いていた。」
と、著いています。
もう一人、多田利吉が[陶磁]第9巻第6号に、
「さきに虫明焼創始窯の文献中で文化年間と載せたが、文政初期であるのが正しかろう。」
と、著いています。
このホームページ「虫明焼について・蓼純の虫明焼半可通」と、ほぼ同じ説ですね ☆
では、異なった説を見てみます。
[味趣のも焼] では有りませんね ☆
右から書かれています。[焼もの趣味] 昭和11年9月号です。
高草藍山(たかくさらんざん・高草平助)が、「備前蟲明焼の研究」と、題して文章を載せています。
抜粋させていただきます。
「蟲明焼の起源については、日本陶瓷史、日本陶器全書、近世日本窯業史等には何れも文化
年間とし、其他には年代を明にしたものはないが、邑久郡誌所載の今吉吉藏開窯の時期、即ち
寛政年間を以て創始の時と見てよいであらう。」
と、著かれています。
文化、寛政をネットで調べてみますと・・・
文化は江戸後期(1804〜1818年)、寛政は江戸中期 (1789〜1801年)のようです。
いろいろな説がありますが、大きくは違っていないと思います。
コメントをいただき、ありがとうございました。
〔また追記〕
今吉吉蔵父子が虫明池奥に窯を築いたのが始まりだ、という説が有力です。
と お話いたしました。
この窯には、龍野野田窯(兵庫県)の兵右衛門という陶工(陶芸家・作家)も居たようです。
[虫明焼の記録]147ページに、
「池田家文書虫明焼一件書類中の天保十三年八月十三日、覚、備前焼似寄之品を製造の疑いあり
今吉吉蔵父子、龍野焼物師兵右衛門に大庄屋より名主祐介を経て注意した旨の記録が有る。」
と、書いています。
〔またまた追記〕
〔また追記〕で今吉吉蔵父子の窯に、龍野野田窯の兵右衛門という陶工(陶芸家・作家)も居たよう
です。
と お話いたしました。
兵右衛門のことは、[図録・揖保郡三窯] 野田焼関連年表と展示関連年表に下記のとおり記載
されています。
天保 4年(1833年) 龍野焼物師兵右衛門(野田焼陶工)、虫明焼・池奥窯(岡山県)に
招かれ指導にあたる。
天保13年(1842年) 虫明焼の贋備前焼事件の関与者の一人として、龍野焼物師兵右衛門
の名があがる。
特別展 揖保郡三窯 林田・野田・新宮のやきもの は
たつの市立埋蔵文化財センターで 2009年10月31日から2010年01月25日の間 開催され、
[図録・揖保郡三窯] が発行されました。
[図録・揖保郡三窯] を見ると、虫明焼の雑器と同じような感じのものが多く載っています。
〔まだ追記〕
「蓼純Collection」のページに、清風与平作の、菓子器(蓋物)を載せています。
と、お話いたしましたが 「蓼純Collection」は過去のページを見ることができないので、
ここに 清風与平作 菓子器(蓋物)の写真を再びUPいたします。
他の回も、できるだけ写真を追加していく予定です。
紫陽花を染め付けた蓋物(菓子器)です。
染付磁器・・・ ですが、左側の写真 の高台を見ていただければ分かると思いますが、
半磁器(半陶半磁)です。
初代清風与が虫明に滞在したのは、約7箇月ですが、
窯の製作から始めていますので、短い期間に上質な磁器は焼けなかったということです。
残念ながら蓋に金直し(金継ぎ)をしています。右側の写真です。
銘(印)は、〔第3回〕 太田コレクション 清風与平作 菊絵菓子鉢と同じく、
「琴浦」の陽印を捺しています。
〔第2回〕 2003.11.08.
前回、文政〜天保のころは、備前焼に似ているものも、焼いていたため、
備前焼の窯元から、数回「専売を侵すもの・・・」として訴えられた と、お話いたしました。
備前焼類似事件(虫明焼物一件・ニセ備前焼事件)です。
残念ながら私・蓼純は、この頃の備前焼風の虫明焼は、陶片も見たことがありませんので、
虫明池奥・今吉吉蔵(いまよしよしぞう)の窯跡(物原)を
見られた方を、紹介しておきます。
黒井一楽(くろいいちらく・1914〜1996年)が、平成3年に虫明焼の講演をされました。
そのときの講演内容が、[岡山の自然と文化]11 83〜120ページに掲載されています。
一部を、下記に引用させていただきます。
「私も今から四十四、五年前になる話ですけど、池の奥の伊木家のその窯跡を見に行ったことが
あるんです。その時に、いろんな陶片のなか、ほとんど備前焼の伊部と同じ焼締で、私が最初
行ったのは窯より何よりその破片でそこの場所がわかり、又破片で山のようになっていまして、
その陶片がほとんど100パーセントといっていいぐらい備前焼にそっくりな焼締で、それでまず私は
びっくりしたわけなんです。そういったところは、あるいは当時虫明で備前焼を作らんようにという
おぼしめしがあって、あるいはそこで、備前風のものを全部割ってしまったのではないかと思うぐらい
たくさんありました。」
と、著かれています。
虫明池奥・今吉吉蔵の窯跡(物原)を 見られた方を、もう一人。
月刊誌・[目の眼]1979年10月号に、「国焼茶碗のふる里を訪ねて・備前の虫明焼」という題名で、
金田眞一が著いています。
抜粋させていただきます。
「吉蔵の窯跡は、みかんの段々畠傾斜の上、梅林の中にあった。秋草に埋もれて窯壁片や大きい
匣(さや・器物を焼く時の容器)、それに無釉焼き締めの陶片が散乱していた。その片は壷、かめ、
徳利の類が多かった。やはり備前にはよく似ている。この窯は、吉蔵の罪科により、人手で完膚な
きまでに破壊されたのであろう。いつの世でも出る杭は打たれるということか、私は吉蔵にある種の
同情を覚えた。良いものなら、双方が競い合い作ればよいのではないか。そこに錬磨と発展が
ある筈だ。この吉蔵窯に、現代産業社会の一側面をみるような気がした。」
また、金田眞一は月刊誌・[目の眼] 1968年7月号、「国焼の味わいE」 虫明焼 にも、
この窯跡は虫明裳掛農協の裏山だが、段々畑の傾斜地梅林の中に、窯壁やさやの類と共に
焼しめの壺、かめ、徳利などの破片が、古人の悲憤を物語っている。
と、著いています。
さすがです、実際に窯跡(物原)を見られた方の言葉は、力が強いですね ☆
今回は、清風与平のことを、お話しようかな と思っていましたが、次回にいたします。
〔追記〕
私・蓼純は、文政〜天保のころの、備前焼風の虫明焼は、陶片も見たことがありません。
と、お話いたしましたが、
某虫明焼研究・愛陶家に、窯跡(物原)から発掘した破片を、見せていただきました。
少し薄作りでしたが、確かに備前焼に似ていました ☆
その中には、備前・金重窯が使っていた「分銅」印を、捺したものもありました。
トレードマークの使用は、マズイですよね ☆
〔また追記〕
文政〜天保のころの、備前焼風の虫明焼徳利の写真が、
[図録・宮川香山] 岡山県立美術館 21頁4〜6図に掲載されています。
「上一」 と 「分銅」 銘(印)です。
〔第3回〕 2003.12.08
伊木三猿斎(いぎさんえんさい)が、弘化4年(1847年)に、
清風与平(せいふうよへい・1803〜1861年)を虫明に招いた、というところ迄 お話いたしました。
清風の在虫期間は、弘化4年(1847年)の3月から、同年10月迄の短い間です。
しかも、7箇月位の間に窯を築き、陶磁器を制出したわけです。
したがって、虫明での清風与平作品は、僅かしか現存していません。
作品を見ることが出来る場所は、邑久町立中央公民館です。
太田巌(おおたいわお・1906〜1999年)が、岡山県邑久町に虫明焼の収集品を寄贈しました。
その収集品が、平成3年(1991年)から邑久町立中央公民館に、常設展示されています。
太田コレクションです。
太田コレクションに、清風与平作の菊絵菓子鉢が、常設展示されています。
輪花に造った鉢の、内と外側に菊の花と葉を上絵付けした名品です。
轆轤(ろくろ)の冴え、釉薬の美、絵付けの素晴らしさ、これは良いですね ☆
なお、銘(印)は胴下部に 「於虫明 清風造」と朱書きしており、
高台内に、「琴浦」の陽印を捺しています。
この菊絵菓子鉢の写真は、[備前虫明焼]の62ページ・第28図、
[増補改定備前虫明焼]の47ページ・第20図に載っています。
[邑久町史・文化財編]175ページのカラー写真がいいですね ☆
この他の清風作品は、[備前虫明焼]の口絵、
[増補改定備前虫明焼]の38ページ・第10図に、三島狂言袴水指の写真が載っています。
この水指は轆轤(ろくろ)成形で、薄作りにした後に撫で菱に作っています。
口から釉薬をたらしています、これも良いものです。
もう一点、紹介しましょうか。
[古虫明・現代虫明焼]の6ページに、葉形平鉢が載っています。
この平鉢も良いですね ☆
師である仁阿弥道八の「銹絵桐葉形皿」に引けを取らない作品です。
このほかにも、[備前虫明焼]、[増補改定備前虫明焼]、[古虫明・現代虫明焼]には、
数点清風与平の作品写真が、掲載されています。
しかし、3冊とも発行年が古く、発行部数も少ないので見る機会が無いかもしれません。
清風与平作の、紫陽花図蓋物(菓子器)を載せていますので、ご覧になって下さい。
私・蓼純も、清風与平が虫明で焼いたものは、この一点しか持っていません。
銘(印)は、太田コレクションの清風菊絵菓子鉢と同じで、「琴浦」の陽印を捺しています。
以前にも、お話いたしましたが、清風与平によって、茶陶としての虫明焼が始まります。
虫明焼が、備前の諸窯と非常に近い距離にありながら、備前焼の影響を全く受けず、
しかも、単なる京写しに終わらず、独自の品格をもった焼き物を造っていきます。
小野賢一郎(おのけんいちろう)は、
「備前のきわめて原始的な錆のあるものにたいして、虫明はきわめて薄手で美しいものを焼いて
おります。いわば仁清の手を汲んだかと思うような釉薬を使いながら華やかにせず一種の趣を出
しております。備前の錆び一方の中にこういう窯があるのもおもしろい。大磐石の懐に一茎の桔梗
が咲いたという風景です。」
と、[やきもの鑑定読本]に著いています。
また、太平逸人は、[阪急美術] 第22号 昭和十四年七月発行の「眞葛原と虫明」に、
「虫明焼は、備前、伊賀、信楽などの大澁物と、九谷、伊萬里等の綺羅びやかなものとの中間を
往くものゝ中でも、質實で侘味のある、恰も垣根に添ふ山吹の花に接するやうな、谷間の姫百合を
思はせるやうな氣分を持たせる。」
と、著いています。
次回は、真葛長造(まくずちょうぞう)について、お話してみようと思います。
〔追記〕
太田コレクション 清風与平作の菊絵菓子鉢の写真を上に追加しました。
なお、「蓼純Collection」の頁に載せていた清風与平作の、紫陽花図蓋物(菓子器)の
写真は、〔第1回〕の〔まだ追記〕 に載せていますので、ご覧になって下さい。
〔第4回〕 2004.01.12
今回は、真葛長造(まくずちょうぞう・宮川長造・楽長造)について、お話していきます。
真葛長造(まくずちょうぞう・1797年〜1860年)=宮川長造(みやがわちょうぞう)の生家は、
京都の真葛ケ原です。
先祖代々、陶器の製造を業とし、屋号を楽屋と名乗っていました。
真葛長造の箱書きに、楽長造(らくちょうぞう)と書いているのは、屋号の楽屋に由来するものです。
宮川長造は、観勝寺安井門蹟から「真葛」の号を賜り、真葛長造と名乗りました。
また晩年、華頂宮より「香山」の号を授かりました。
轆轤(ろくろ)は練達の技で、きわめて薄く軽妙に挽いています。
さらに腰まわりには、踊りカンナ(飛びカンナ)をめぐらし、
水指の耳・蓋のつまみなどに、技法の妙味さを示しています。
また、真葛長造は、仁清(にんせい)写しを得意とし多く造っています。
抹茶碗、水指、香合などの制作が多いですね。
青木木米(あおきもくべい)の弟子となり、最晩年の木米の製陶を助けました。
真葛長造は、幕末の名工の一人に数えられ、
木米、仁阿弥道八(にんなみどうはち)、永楽保全(えいらくほぜん)と並ぶ名声を得ました。
真葛長造の四男・寅之助が、真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)です。
真葛長造の長男・長平が二代真葛長造です。
真葛長造が、伊木三猿斎(いぎさんえんさい)に招かれて、
京都から、虫明にきたのが、嘉永5年(1852年) 頃です。
二代真葛長造を同行して、陶磁器を制作しました。
前回、お話した清風与平(せいふうよへい)が、虫明にきたのは、弘化4年(1847年)です。
池上千代鶴(いけがみちよづる)は、[虫明焼の記録]148ページに、
清風家に記録があります。「弘化4年伊木公の命を受けて、備前虫明村に於いて陶窯を築き諸器
を製出して褒賞を受け、尚住人に陶業を教示し・・・」 と記されたものが現存している。
と、著いています。
加藤唐九郎(かとうとうくろう)編の、[原色陶器大辞典]・淡交社にも、
「1847年(弘化4) 岡山藩伊木氏に招かれ備前虫明に従い、同地の工人に技を伝えた・・・」
と、明記されています。
ですから、清風与平が虫明に来たのは弘化4年(1847年)で間違いないと思います。
しかし、真葛長造が虫明に来た事は、記録には残っていません。
したがって、虫明に来たのは、嘉永5年(1852年) 頃と、「頃」が付いてしまいます ☆
しかも、桂又三郎(かつらまたさぶろう)は、[備前虫明焼]、[増補改定備前虫明焼]で、
真葛長造の来虫を否定しています。
「初代楽長造(真葛長造)は、虫明へ行っていないと思う。そのことは作品は世間に往々あるが、
一つとして作品に虫明印のあるものがなく、またその箱書きも東山真葛原陶工楽長造々などと
書いたもので、於明浦とか於虫明とかの文字のあるものを見ないからである。虫明へ行ったのは
二代楽長造である。」
と、記されています。
しかし、池上千代鶴は、[虫明焼の記録]342ページに、
当代の京都真葛家、香斎は同家の伝承に従い、「長造は一時、三猿斎に呼ばれて備前の虫明焼
の窯で作品を作っている。長男・長平も、四男寅之助も行った」 と強く云いきる。
と、記しています。
桂又三郎も、池上千代鶴も、虫明焼について驚くほどによく研究された方々です。
この二人の意見が、真葛長造の来虫については、相反する説になりました。
私・蓼純は、池上千代鶴の真葛長造 来虫説を採ります。
なぜなら、真葛長造の作品が残っています。
太田巌(おおたいわお)の収集品です。
そうです、邑久町立中央公民館(おくちょうりつちゅうおうこうみんかん)です。
邑久町立中央公民館に、秋草絵水指が常設展示されています。
白釉地に秋草を描いています、京風の上手の水指です。
[邑久町史・文化財編]によると、「真葛」印と「むしあけ」印を押捺しています。
この水指が、虫明焼での真葛長造作品です。
宮川香齋(みやがわこうさい)が、毎日新聞社から、[真葛] という書籍を出しています。
幕末の陶工・真葛長造作品集成と歴代系譜 [真葛] です。
真葛長造と、二代真葛長造の作風がよくわかります。
太田巌コレクションの秋草絵水指は、真葛長造作です。
しかも、「真葛」印と「むしあけ」印が押捺されています。
この水指が、真葛長造が虫明に来たという裏付けだ と、私・蓼純は判断しています。
この秋草絵水指の写真は、[備前虫明焼]の75ページ・第35図、
[増補改定備前虫明焼]の55ページ・第29図に載っています。
桂又三郎は、真葛長造の来虫を否定しています。
したがって、この水指を、二代真葛長造作として載せています。
[邑久町史・文化財編]では、177ページにカラー写真が載っています。
清風与平によって、虫明焼が茶陶に生まれ変わり、
真葛長造によって、虫明焼が茶陶として定着します。
真葛長造(宮川長造)が虫明に行った、と書いている本もあるのですが、
真葛長造(宮川長造)と、真葛香山(宮川香山)を混同したり錯覚しているために、
矛盾した文章になっている箇所があるので、引用は控えさせていただきます。
宮川香齋著・[真葛] 毎日新聞社 が、昭和63年(1988年)に刊行されるまでは、
真葛について、ほとんど判ってなかったですからね ☆
なお、このHP「蓼純Collection」の頁に、
真葛長造作の抹茶碗2点を載せていますので、ご覧になって下さい。
高台内の華麗な踊りベラを、お楽しみください ☆
ただし、「真葛」印のみで、「むしあけ」印は捺されていません。
今回は、真葛長造の虫明来窯について、くどくなってしまいました ☆
次回は、真葛長造の四男・真葛香山 (まくずこうざん・宮川香山) について、
お話していく予定です。
〔追記〕
桂又三郎は、真葛長造が虫明に来たということを否定している。
と、お話いたしました。
しかし、[茶人伊木三猿斎]・桂又三郎著 では、
「高草氏は真葛長造は虫明へ来ていないと、はっきり割り切っているが、必ずしもそうとばかり
いえない。」
「真葛長造が虫明にきて仁清風の作品を焼いたかも知れぬ。であるから三猿斎と真葛長造、
虫明焼といった三角関係はもっと究明されねばならぬと思う。」
と、著いています。
高草氏というのは、虫明焼研究家の高草藍山(たかくさらんざん・高草平助)です。
高草藍山は、真葛長造が虫明窯に来た と言うことを全面的に否定しているが、
桂又三郎は、真葛長造の来虫を全面的には、否定していないようです ☆
〔また追記〕
地元・虫明の識者は、真葛長造の虫明来窯を肯定しています。
虫明焼について最も権威のあった・「虫明愛陶クラブ」の、箱書きが残っています。
「真葛長造作 虫明愛陶クラブ識」 と鑑定した抹茶碗を、私も何点か見たことが有ります。
〔またまた追記〕
〔また追記〕で、「虫明愛陶クラブ」の、真葛長造作抹茶碗の識箱が有ることを お話いたしました。
識箱と言うのは、本人作に間違いないと鑑定した証明書きですよね。
ですから、本人作でなければ、「極められません」 と言うことで、箱書はしてもらえません。
ところが、「虫明愛陶クラブ」には、変わった箱書きをしたものがあります。
「むしあけ」印と「香洲」印を捺した・ニセ森香洲抹茶碗の箱書きを、次のように書いています。
「香洲 印あるも 横山香宝の作品である」
「箱書きは出来ません」 ではなく、ニセ森香洲抹茶碗だと言う、面白い識箱です。
以上、雑談でした ☆
〔まだ追記〕
「蓼純Collection」の頁に、真葛長造の抹茶碗2点を載せていましたが、
既に削除していますので、一点のみですが、ここに真葛長造の抹茶碗を写真を載せます。
真葛長造 造 抹茶碗です。
「真葛」印のみで、「むしあけ」印は捺されていません。
〔第5回〕 2004.04.11
第4回で真葛長造(まくずちょうぞう・宮川長造)のことを、お話いたしました。
真葛長造が、岡山藩の筆頭家老・伊木三猿斎(いぎさんえんさい)に招かれて、
京都から虫明にきたのが、嘉永5年(1852年)頃です。
それから、約10年後の文久2年(1862年)3月に、この窯は伊木三猿斎から、
森角太郎(もりかくたろう・1825年〜1906年)に譲渡されます。
これで、虫明焼が民窯となります。
虫明焼の、民営化の始まりです。
民営化への流れで、茶陶よりも日常雑器のほうが多く生産された と推察されます。
実際に、当時造られた片口、平鉢(大皿)、コネ鉢、徳利などが現在も多く残っています。
しかし、後に造られた薄手の茶陶だけを見ている方には、厚手の虫明焼日常雑器は、
虫明焼として受け入れられないようです。
箱書も銘(印)も、無いですからね ☆
伊木三猿斎から、虫明窯を譲り受けた森角太郎は、森香洲(もりこうしゅう)の父親です。
森角太郎は、兵庫・播磨から野田焼の陶工(陶芸家・作家)・赤松平右衛門(あかまつへいえもん)、
永田宗右衛門(ながたそうえもん)を、招いて陶業を始めました。
〔第1回〕で追記したとおり 今吉吉蔵の虫明池奥窯にも野田焼陶工が来ています。
したがって、虫明焼の雑器は野田焼の影響を大きく受けています。
たとえば、釉薬を掛ける方法として、筒描き(イッチン)、流し釉などを多く用いています。
絵付けにも、野田焼と類似したものが多数見られます。
青木重雄著の[兵庫のやきもの]には、
「野田焼は、京焼や明石焼、虫明焼(岡山県)などとかなり交流があったようで・・・」
と、書かれています。
しかし、野田焼と虫明焼の交流があったというよりは、
虫明焼が、野田焼から技術・手法を、得た・学んだ、 ということです。
野田焼が先生で、虫明焼が生徒です ☆
文久3年(1863年)9月に、裏千家々元精中宗室・玄々斎(げんげんさい・1810年〜1877年)が、
少庵宗淳の二百五十回遠忌を催しました。
この時、伊木三猿斎に懇望し、少庵所持伝来の高麗三嶋写角水指を、虫明窯で30個焼いています。
いわゆるタタラ作りで、スライスした4枚の粘土板(底部を入れると5枚)を合わせて釣瓶の形にしています。
本体の模様は、彫り三嶋(ほりみしま)で、耳は分銅の形にしている。
この水指を造ったのは、兵庫・播磨から来た陶工(陶芸家・作家)・赤松平右衛門と永田宗右衛門だ。
と、池上千代鶴(いけがみちよづる)は、[虫明焼の記録]に著いています。
しかし、桂又三郎(かつらまたさぶろう)は、二代清風与平が虫明に来て造ったのではないか、
と言っています。
銘(印)は、入ってないですからね ☆
この水指の写真は、[備前虫明焼]61頁と、[増補・改定備前虫明焼]44頁に載っています。
[増補・改定備前虫明焼]44頁には、玄々斎の箱書付の写真も載っています。
高麗三嶋写水指が、少庵二百五十回忌で使用されたことによって、虫明焼の名が世間に知られ
ました。
明治元年(1868年)、森香洲の父・森角太郎が経営する虫明窯に、
真葛香山(まくずこうざん・1842〜1916年)=宮川香山(みやがわこうざん)が来窯しました。
真葛香山は、京都の真葛ケ原で開窯していた真葛長造の四男・寅之助として生まれます。
父・真葛長造、兄・二代真葛長造の亡きあと(共に1860年没)、家督を継いでいます。
真葛香山は、慶応2年(1866年)に、幕府から朝廷に献上する煎茶器大揃を制作しています。
この時、まだ24歳の若さです。
明治元年(1868年)に、伊木三猿斎(いぎさんえんさい)の招きで、九州の帰途、
虫明に滞在して、卓越した陶技を、虫明窯での製陶で存分に発揮します。
この時、森香洲(もりこうしゅう)、久本葛尾(ひさもとくずお)などを指導・育成しています。
森香洲の「香」、久本葛尾の「葛」は、それぞれ真葛香山から、一字をもらったものです。
真葛香山が地方の窯に滞在し、本格的に指導したのは、全国でも虫明焼だけです。
虫明焼は真葛長造、真葛香山父子の指導窯です。
真葛香山は虫明窯で、水指、抹茶碗、菓子器などの雅品を焼いています。
主に、茶陶です。
作風は、実父であり、師の真葛長造が得意とした、仁清写しが中心になっています。
作品を見ることが出来る場所は、邑久町立中央公民館です。
と、このホームページに、何度も書きました。
しかし、残念ながら真葛香山の作品は、邑久町立中央公民館にもありません。
邑久町立中央公民館の展示品は、太田巌(おおたいわお)が寄贈したものです。
真葛香山は、虫明焼の骨格のようなものですから、
真葛香山を語らずして、虫明焼は語れません。
その真葛香山の作品を、太田巌は、なぜ持っていなかったのか。
これは、私も疑問に思っています。
現物がなければ、写真です。
ほとんど入手できない書籍で恐縮ですが、次回に紹介してみたいと思います。
なお、このHP「蓼純Collection」の頁に、
真葛香山作・虫明焼手鉢(菓子器)を載せていますので、ご覧になって下さい。
桂又三郎(かつらまたさぶろう)の、箱書きがあります。
〔追記〕
森角太郎(もりかくたろう)は、「角太」、「葛雄」銘で急須、盃洗などを造っています。
しかし、虫明窯の経営者であって、陶工(陶芸家・作家)ではありません。
趣味として土ひねりをしても、売れるようなものは、造ってはいないでしょうね。
電動轆轤(でんどうろくろ)なんか、ない時代ですから ☆
もちろん銘の「葛雄」は、真葛香山の「葛」をもらったものです。
「葛雄」銘で轆轤のさえているものは、田中巴石(たなかはせき) あるいは、
久本葛尾(ひさもとくずお) が挽いた、といわれていますが、どうなのでしょうか(?)
赤松平右衛門、永田宗右衛門は、民営化された森角太郎窯の主軸でした。
しかし、赤松平右衛門、永田宗右衛門の銘(印)の入った虫明焼は、私は見たことが有りません。
この当時の窯は、茶陶中心ではなく、日用雑器が主流だったと考えられます。
虫明焼も日用雑器には、銘(印)を入れないのが普通です ☆
それに、赤松平右衛門、永田宗右衛門は野田焼の陶工でした。
野田焼の陶工(陶芸家・作家)は、銘(印)を入れないようです。
青木重雄著 [兵庫のやきもの] に、「野田焼には有銘の遺品は一点もない」
と、著いています。
「一点もない」 強いですね ☆
〔またまた追記〕
森角太郎は、兵庫・播磨から野田焼の陶工(陶芸家・作家)・赤松平右衛門(あかまつへいえもん)、
永田宗右衛門(ながたそうえもん)を、招いて陶業を始めました。
と、お話いたしました。
特別展 揖保郡三窯 林田・野田・新宮のやきもの が
たつの市立埋蔵文化財センターで 2009年10月31日から2010年01月25日の間 開催され、
[図録・揖保郡三窯] が発行されています。
赤松平右衛門、永田宗右衛門のことは、[図録・揖保郡三窯] 野田焼関連年表と展示関連年表
に下記のとおり記載されています。
文久 3年(1863年) 野田焼の陶工(野田村永田宗右衛門、東山田村赤松平右衛門)虫明焼・
間口窯の指導にあたる。
〔まだ追記〕
高麗三嶋写角水指を、虫明窯で30個焼きました。
と、上でお話いたしましたが、この水指について良い写真(図録)があります。
岡山県立博物館発行の [図録・むしあげ] です。
[図録・むしあげ] の36頁25図、37頁26図です。38頁27図も見てください。
他の角度からの写真と解説は、124頁〜126頁をご覧ください。
この水指は、彫り三嶋(ほりみしま)にして、板目を表現しています。
正面と右側が6段、奥側が5段、そして左側が7段となっています。
この意匠は、轆轤挽きである38頁27図の、三嶋写釣瓶水指も6段、6段、5段、7段と同じです。
また、岡本英山作の三嶋写角水指も見たことがありますが、
これも6段、6段、5段、7段と忠実に写していました ☆
高麗三嶋写角水指はタタラ作り、しかも三嶋手にしているため、窯傷が入ったものが多いようです。
蓋は、真塗りです。
なお、高麗三嶋写角水指の写真を上に追加いたしました。
〔まだまだ追記〕
「蓼純Collection」の頁に、真葛香山作 虫明焼手鉢(菓子器)を載せていましたが、
既に削除済ですので、ここに載せました。
桂又三郎(かつらまたさぶろう)の、箱書きがあります。
〔第6回〕 2004.08.08
今回は、真葛香山 (まくずこうざん・宮川香山)の作品が掲載されている書籍の紹介です。
まず、桂又三郎(かつらまたさぶろう)著・ [備前虫明焼] & [改定備前虫明焼]です。
最初は、月に雁絵の水指です。
[備前虫明焼]の口絵です。
細水指の上方に、お月さまをヘラで掘っています。
月の下方に雁が連なっている様子を、鉄釉で描いています。
両端に大きな耳を付けて、耳の中央付近から、斜めに切り落として鋭さを出しています。
蓋のつまみは、結文にして遊んでいます。
月に雁絵の水指は、虫明焼の代表作です。
現在まで、いろいろな陶工(陶芸家・作家)によって、写されています。
この水指は、東京国立博物館(東博)蔵と記しています。
東博蔵のものを、もう一点紹介しておきます。
[備前虫明焼]の101ページ第50図、 [改定備前虫明焼] 63ページ第44図の茶入れです。
形は、瓢箪形に造っています。
釉を全体に掛けたあと、正面に白釉を長短二本垂らしています。
茶入れの底面に捺された、「むしあけ」印が載っています。
これが、真葛香山が使用した「むしあけ」印です。
写真の印を、よ〜く見てください。
私・蓼純が、印のことを言うのは、今回が初めてです。
私は、印より、雰囲気というか、感じ、作風、土味、個性を重視するほうなんですが・・・
印をよ〜く見てください、といったのには、訳があります。
真葛香山作といわれるものは、骨董屋さん(古美術店)にも、よく出ます。
虫明焼の収集家も、たいてい持っています。
その内の全部。 じゃあないけれど・・・
98から99パーセントくらいが、贋物です。
真葛香山の虫明作品の贋作が、本物の何十倍もあるということです。
どこの焼き物でも、伝統を守りながら少しづつ変化して行きます。
虫明焼も決して例外ではなく、先人に習い先人のものを真似て造ることから始まるわけです。
虫明焼の場合、主に真葛香山が手本となっています。
真葛香山の作品を手本にして、自分のものを造るのは、
伝統を引き継ぐ、と言うことでいいのでしょう。
しかし、その作品に、「むしあけ」印だけではなく、「真葛」の銘(印)をいれます。
その時点で、虫明焼・真葛の贋物が誕生してしまいます。
また、真葛香山のものが、高く売れるので、古物業者が、
真葛香山の贋作を虫明や、京都などで大量に造らせた時期があります。
[備前虫明焼] 183ページには、京都製の「真葛」贋印が載っています。
[虫明焼の記録] 39、41ページには、京都製「真葛」贋印 42ページには、虫明製の贋印
そして、43ページには、大正時代酒津(さかづ)窯の「真葛」贋印が載っています。
酒津窯というのは、岡山県倉敷市酒津にある 現在も焼かれている窯です。
真葛香山作として売る場合、「むしあけ」印だけのものより、
「むしあけ」と「真葛」の両方の印があるほうが、売りやすいのは当然です。
買う方が、安心できます ☆
「むしあけ」 「真葛」の二印のあるものにも、いいもの(本物)は勿論あります。
しかし、東博蔵の、瓢箪形の茶入に捺されている「むしあけ」印が、本物だという事です。
真葛香山が虫明で使用した、ひらがなの「むしあけ」印は、
この瓢箪形の茶入に捺されている印だけだ と、私・蓼純は思っています。
真葛香山が、虫明に滞在した二年数ヶ月の間に、
いろいろの「むしあけ」印は使っていない という事です。
[備前虫明焼]の100ページ第49図、 [改定備前虫明焼] 66ページ第47図に水指が載っています。
伊木家の菩提寺・少林寺(岡山市)所蔵の箪瓢(たんぴょう)水指です。
この水指は、私・蓼純も見せていただいたことがあります。
「むしあけ」印のみで、「真葛」印は有りませんが、真葛香山作に間違いありません。
東博蔵の、瓢箪形の茶入に捺されている「むしあけ」印と、同じ「むしあけ」印です。
下に写真を、載せています。
このHP「蓼純Collection」の頁に、私が持っている真葛香山の作品を順次、何点か載せています。
すべて、東博蔵の瓢箪形の茶入と同じ「むしあけ」印です。
一部の虫明焼愛陶家からは、反論が出るかも知れませんが、このあたりで終わります。
次回も、真葛香山です。
〈 少林寺所蔵の箪瓢水指と、その「むしあけ」印の写真 〉 (某虫明焼研究・愛陶家撮影)
〔追記〕
[改定備前虫明焼] に載っている、真葛香山・虫明焼作品を、もう一点紹介しておきます。
[改定備前虫明焼]、76ページ第59図の松毬絵抹茶碗を見てください。
写真をみても、あまり良くは感じられないかもしれません ☆
私・蓼純も、本の写真は見ていましたが、あまり良い抹茶碗だとは、思いませんでした。
しかし、この抹茶碗を 所有者の某虫明焼研究・愛陶家に見せて頂きましたが、
すごく良い抹茶碗です。
銘(印)を見なくても、触れなくても、真葛香山・虫明焼作品だと判ります。
この松毬絵抹茶碗は、 「むしあけ」印 と 「真葛」印 を併捺しています。
「むしあけ」印は、もちろん東博所蔵の瓢箪形の茶入と同じ「むしあけ」印です。
写真も撮らせていただいていますので、ご覧ください。
某美術館の某学芸員から、東京国立博物館(東博)蔵の瓢箪形茶入についての情報を
頂いています。
「東博の虫明焼瓢形茶入は、昭和12年ごろ横川民輔氏より東博へ寄贈された。」
とのことです。貴重な情報をありがとうございました。
〔またまた追記〕
少林寺所蔵の箪瓢(たんぴょう)水指は
桂又三郎が、[備前虫明焼]の100ページに 三猿斎好み短瓢水指 の解説をしています。
この中で 高台内に隷書の「真葛」印と平仮名の「むしあけ」印が捺してある。
と記していますが、上でも話したとおり この水指は「むしあけ」印のみです。
「真葛」印は、ありません。
誤記です。
〔まだ追記〕
[図録・宮川香山]・岡山県立美術館発行をご覧ください。
東京国立博物館(東博)蔵の瓢箪形茶入れは [図録・宮川香山] 33頁36図
少林寺所蔵の箪瓢(たんぴょう)水指は [図録・宮川香山] 32頁35図
に掲載されています。
〔第7回〕 2004.12.12
今回も、真葛香山 (まくずこうざん・宮川香山) についてです。
前回は、真葛香山が虫明で使用した、ひらがな「むしあけ」印について お話いたしました。
ごく一部の方からですが、それなりに反響がありました ☆
今回は、真葛香山作の、磁器を紹介してみることにいたします。
真葛香山は、虫明では主に陶器をつくっていますが、磁器もあります。
磁器といっても、半磁器(半陶半磁)という感じのものなのですが・・・
真葛香山の造った磁器に絵付けをしているのが、菊渓幽人(きっけいゆうじん)です。
真葛香山作・菊渓幽人画の盃洗が、[備前虫明焼] の83ページ第42図、
[改定備前虫明焼]79ページ第64図に写真掲載されています。
宿禽図です。鳥が木の実を捕ろうとしているところを、染め付けています。
染め付けというのは、胎土の白色と青色とのコントラストがいいのです。
しかし、残念ながら白黒のページです。
飯茶碗も載っています。
[備前虫明焼] 108ページ第60図、 [改定備前虫明焼]70ページ第52図の写真です。
これも菊渓幽人が、葉っぱ様のものを染付けています。
「真葛焼 茶碗 拾人前」 と書かれた箱に入っているようです。
この飯茶碗、いいですね。
これ欲しいなあ ☆
最後に、もう一点、菊渓幽人が描いた燭台が載っています。
[備前虫明焼] 133ページ第83図、 [改定備前虫明焼] 97ページ第97図の写真です。
これは、磁器では無いかも知れませんね。
桂又三郎は、菊渓幽人について、[備前虫明焼]、 [増補改定備前虫明焼]に、
菊渓幽人の正体であるが、どうも資料が全然なくて、どういう人物であるかはっきり分らない。
と、書いています。
池上千代鶴(いけがみちよづる)も、[虫明焼の記録]に、
菊渓幽人の正体はどういう人物か分らない。
結局菊渓幽人、楠渓幽人は真葛香山の虫明滞留中に限り用いた分身的の別号と解明する。
と、書いています。
残念! 菊渓幽人というのは、
三代清風与平(せいふうよへい)の実父・清山(せいざん)のことですから。
もう一人、真葛香山が造った磁器に絵付けをしているのが、楠渓幽人(なんけいゆうじん)です。
拙者、楠渓幽人の正体がわかりませんから! 切腹!!
真葛香山作 楠渓幽人絵付けの酒注(染付け手付樽)
この染付け手付樽が、昭和32年(1957年)11月に岡山県指定重要文化財(工芸)になりました。
写真は [備前虫明焼] 103ページ第52図、 [改定備前虫明焼] 67ページ第48図です。
月刊誌 [小さな蕾] 2001年6月号で、「明治の魅力 宮川香山の釉下彩」
という特集が組まれました。
「概略宮川香山とその作品」の最初のページに、染付け手付樽のカラー写真が載っています。
「虫明染付手付樽(青木楠渓下絵)」と書かれています。
楠渓幽人は、青木楠渓というのでしょうか (?)
[邑久町史・文化財編]は、この酒注(手付樽)の説明のために4ページ使っていますね。
150ページから、153ページまで です。
写真も四方向から撮った、カラー写真が載っています。
この酒注(手付樽)は個人蔵なのですが、一時期、岡山県立美術館に展示されていました。
私・蓼純も、その時にガラス越しですが実物をみました。
楠渓幽人の絵付けは、この酒注(手付樽)一点だけである
と、[備前虫明焼]・ [増補改定備前虫明焼] 、[虫明焼の記録]に書かれています。
しかし、[邑久町史・文化財編]には、
楠渓の作品は、この他に森葛雄との合作で霊芝文煎茶碗(5客)が伝存している。」
と、書かれています。
「霊芝文煎茶碗」を見ていない私は、何とも言えませんが、どうなんでしょうか(?)
楠渓幽人の画風なのでしょうか(?)
[虫明焼の記録]には、
筆者は染付霊芝絵楠渓写高台内に、葛雄とある煎茶器を入手した。
これは昭和時代某の偽作である。
と、書いています。
筆者というのは、池上千代鶴ですよ ☆
なお、葛雄(くずお)を、ご存知ない方へ説明しておきますと・・・
葛雄というのは、森香洲(もりこうしゅう)の実父・森葛雄(もりくずお)のことです。
葛雄の「葛」は、真葛香山の「葛」を、もらったと言われています。
今回は、これで、終わりにいたします。
機会があれば、「霊芝文煎茶碗」を、私も見てみたいなと思っています。
私・蓼純も、楠渓幽人が虫明にいた間に、
染付け手付樽一点しか絵付けをしていない とは考えていません。
葛雄と銘をいれたものに、楠渓幽人が絵付けをすることは、自然ではあります・・・
[増補改定備前虫明焼] の128ページ第147図 磁器盃 森葛雄作・角太銘なんかも、
楠渓幽人が絵付けをしたのかもしれません。
あっ! 今回は、これで、終わりにいたします ☆
〔追記〕
この年は、波田陽区(はたようく=ギター侍)という、お笑いタレントが、大ブレークしました。
侍の格好をして、ギターを弾きながら、
♪♪ わたし、青木さやか、今ノリノリの女芸人
♪♪ もっとビッグになるからね、っていうじゃな〜い
♪♪ 大丈夫、アンタ、前から顔のサイズビッグですから !
♪♪ 残念っ !
♪♪ お化粧2時間、ネタ2分斬りっ!
と何人か、斬っておいて、最後に、
♪♪ 拙者、・・・ ですから、切腹!!
というオチで、終わっていました。
この回、多少文が乱れているのは、TVで「ギター侍」を見ながら書いたからです ☆
〔また追記〕
月刊誌[小さな蕾] が、「明治の魅力 宮川香山の釉下彩」 という特集を組んだ時に、
真葛香山作の酒注(手付樽)の写真が載りました。
その写真説明に、虫明染付手付樽(青木楠渓下絵)と書かれていましたので、
「楠渓幽人は青木楠渓というのでしょうか」
と、お話いたしましたところ、
某虫明焼研究・愛陶家から、
「青木楠渓ではなく、春木楠渓である」 とコメントをいただきました。
根拠は、真葛香山作の染付け手付樽を、岡山県重要文化財に申請した書類に、
「春木楠渓」 と書かれているそうです。
調べてみますと、岡山県のホームページにも、確かに 「春木楠渓の写生画・・・ 」
と、書いています。
月刊誌[小さな蕾] の誤植のようです。
ご指摘をいただき、ありがとうございました。
〔またまた追記〕
〔また追記〕に書いた、岡山県重要文化財の申請書は、
「目指せ!眞葛博士」 眞葛香山 横浜眞葛焼のブログ・2008.08.13
宮川香山紀行 虫明(3)に写真が載っています。
池上千代鶴が [虫明焼の記録] に、
筆者は染付霊芝絵楠渓写高台内に、葛雄とある煎茶器を入手した。
これは昭和時代某の偽作である。
と書いている と、お話いたしました。
私・蓼純も、池上千代鶴が偽作だ と言った煎茶器と 同様の煎茶碗を入手しました。
磁器染付で、霊芝の絵 「楠渓写」、そして高台内に「葛雄」と書いてある煎茶碗です。
霊芝の絵ですし 煎茶碗ですから、当然 虫明染付手付樽のように細密には描かれていません。
贋作を作るのは、高く売るためです。
それなら 「楠渓」&「葛雄」よりも、「楠渓」&「真葛」のほうが高く売れるのではないか(?)
と、思いますが・・・
ここに煎茶碗の写真を載せましたので、ご覧ください。
〔第8回〕 2005.05.01
真葛香山 (まくずこうざん・宮川香山) が、伊木三猿斎(いぎさんえんさい)の招きを受けて、
京都から虫明焼の窯に赴いたのが明治元年(1868年)です。
虫明を離れたのが、明治3年(1870年)の春です。
この間、森香洲(もりこうしゅう)、久本葛尾(ひさもとくずお)などの
虫明焼の陶工(陶芸家・作家)を指導、育成すると同時に、雅品を焼きました。
真葛香山は、明治3年(1870年)の春に虫明から京都に帰り、
同年の秋には、横浜市に移住しています。
翌年・明治4年(1871年)に横浜で開窯し、輸出用の陶磁器を製造します。
良質の陶土・陶石がない、釉薬も、そして窯もない横浜ですが、
そこには、国際貿易港として開港して間の無い、輸出ができる港がありました。
横浜港は、安政6年(1859年)に国際貿易港として開港していました。
真葛・横浜焼 も、開窯当初は薩摩焼風(横浜薩摩)のものを、十人前後で作っていましたが、
工場の拡張に伴って、約百人の生産体制になりました。
真葛香山は、明治9年(1876年)にフィラデルフィア万国博覧会に出品し銅牌を受賞、
明治11年(1878年)のパリ万国では、金牌を受賞するなど世界に名声を高めました。
その後の内外の博覧会でも、多くの賞をとっています。
この頃の真葛香山は、デコラティブ(高浮き彫り)といわれる、
非常に細密な装飾性の強いものを、作っています。
本物そっくりの、蜘蛛(くも)、蛙、カニ、鷹、鳩、蓮(はす)、桜、ぶどうなどの
動植物の彫刻を、花瓶などに取り入れています。
花瓶ではありませんが、
東京国立博物館(東博)が所蔵する、渡り蟹の付いた水鉢(渡り蟹水盤)は有名ですよね ☆
この水盤は、明治14年(1881年) 第二回内国勧業博覧会に出品したものです。
制作年は違いますが同じ形の渡り蟹水盤は、吉兆庵美術館と田邊哲人も所有しています。
〈 写真は真葛香山作 渡り蟹水盤 東博蔵 〉
マクズウェア(MAKUZU WARE)の名を、世界中に広めます。
日本の真葛香山が、世界の真葛香山となりました。
しかし、高浮き彫りの制作には長い日数を要し、焼成時、輸送時の破損も多かったのです。
真葛香山も「売れるものより、失敗して割るほうが何倍も多い」と言っています。
当然コストが、高くなります。
それに、輸出先の外国人(客)の好みにも、変化がでてきました。
そこで、明治20年(1887年)ごろからは、磁器の色入り(釉下彩)花瓶などを作っています。
輸出用だからでしょうか(?) 大きいですね ☆
横浜で輸出用に焼いたものは、ほとんど全部が大きな花瓶です。
また、ほとんどの花瓶が、一対になっているようです。
真葛香山は、明治29年(1896年)に帝室技芸員となりました。
帝室技芸員です。
今どきの人間国宝とは、格が違いますよ ☆
翌年・明治30年(1897年)には、緑綬褒章を授与されました。
「横浜焼について・蓼純の横浜焼半可通」 になりますので、このあたりにしておきます ☆
横浜での真葛香山のことは、
[宮川香山と横浜真葛焼] 二階堂充著 という本が有隣堂から出ています。
この本は、平成13年(2001年)発行ですので、図書館とか、書店にもあると思います。
興味がある方は、ご覧になってください。
ということで、真葛香山はとりあえず終わります。
なお、このHP「蓼純Collection」の頁に、真葛香山が虫明で作った水指を載せています。
次回は、森香洲でしょうか・・・
〔追記〕
帝室技芸員について、簡単に説明しておきます ☆
帝室技芸員は、宮内省によって運営されていた、美術、工芸作家の保護と制作の奨励を
目的として設けられた顕彰制度です。
明治23年(1890年)から、昭和19年(1944年)までの55年間に、陶芸部門で任命されたのは、
5人だけです。
三代清風与平、初代真葛香山、初代諏訪蘇山、初代伊東陶山、それに板谷波山ですね。
〔また追記〕
横浜での真葛香山について、お奨めのブログがあります。
「虫明焼の栞」は、他のHP・ブログとリンクしない方針ですので、検索してください ☆
海外に輸出されていた真葛香山作品の写真が、多数UPされています。
多くの輸出作品を見ると、制作日数と、コストが大幅に掛かかる高浮き彫りを、
輸出しなくなった理由が自然と判ります。
帝室技芸員についても、2008.08.22のブログに詳しく書かれています。
「真葛香山が、虫明を離れたのは、明治3年(1870年)の春です」 と、お話いたしましたが、
虫明を離れたのは 明治3年(1870年)の7月以降、と判断するのが正しいようです。
真葛香山は、虫明から京都に帰り、明治3年(1870年)の秋には、横浜市に移住しています。
今までに確認されていた、真葛香山が制作年を入れた虫明焼作品は、
岡山県重要文化財(県重文)の染付手付樽です。
この染付手付樽に、「午初春」と染付けています。
「午(うま)」は、明治3年(1870年)です。「初春」は正月です。
これにより、「虫明を離れたのは、明治3年(1870年)の春です」 と、お話したわけです。
ところが、ところが、ところが、県重文の染付手付樽より、少し後の制作年月の入った真葛香山の
虫明焼染付樽が英国で発見されました。
「庚午桐月」と染付けたものです。
「庚午(かのえうま)」ですから、同じく明治3年(1870年)です。
桐月は、7月のことだそうです。
したがって、真葛香山は、明治3年(1870年)7月迄は虫明に居た
と、考えられます。
この英国染付樽の出現(発見)から、虫明を発ったのは、明治3年(1870年)の春ではなく、
明治3年(1870年)の初秋頃、ということになります ☆
なお、英国から染付樽を里帰りさせたのが、〔また追記〕でお話いたしました横浜の眞葛博士です。
〔まだ追記〕
英国染付樽については、〔第47回〕でも お話いたしましたので、ご覧いただければと思います ☆
〔第47回〕の〔まだ追記〕に、「染付手付樽」と「英国染付樽」の写真を載せています。
〔まだまだ追記〕
なお、このHP「蓼純Collection」の頁に、真葛香山が虫明で作った水指を載せています。
と お話いたしましたが、既に削除していますので ここに水指の写真を載せておきます。
白釉と鉄釉の釣瓶型掛分け水指です。
蓋は塗り蓋です。
〔第9回〕 2005.08.20
真葛香山 (まくずこうざん・宮川香山) が、京都から虫明に来たのが明治元年(1868年)です。
この時、真葛香山の弟子になったのが、
森香洲(もりこうしゅう・1855〜1921年)と、久本葛尾(ひさもとくずお・1846〜1918年)等です。
森香洲は、真葛香山の「香」の字を、久本葛尾は、「葛」の字を、真葛香山から、もらいました。
森香洲は、真葛香山の最初の弟子です。
森香洲、十三歳のときです。
真葛香山は、
「私は十二、三歳の頃からロクロをひく事を稽古し始め・・・中略・・・二十歳をすぎてから、かかったの
では遅い。もっと手の柔らかな小さいときからロクロで鍛えなければ、一人前のロクロ師とはなれぬ」
と、言っています。
真葛香山も、森香洲も十二、三歳の頃からロクロを挽き始めています。
森香洲は、轆轤(ろくろ)上手いですよ。
当時は、今みたいに電動轆轤なんて無かった時代ですが、スキッとしたものを挽いています。
澄んだ美しさです。
味わいのあるものを、造っています。
轆轤についている棒を握って、手で轆轤を回転させながら、挽いていた時代です。
当然ながら上下に前後にガタガタと揺れ、不均一に回転する轆轤で作品を造っています。
やはり、電機で定速回転させるよりは、自分の手で轆轤を回転させるほうが、
味のあるというか、個性豊かなものが造れるのでしょう。
陶芸教室でも、少しの時間練習した人が電動轆轤で、キレイなだけのものを造っています。
森香洲の作品は、「今月の抹茶碗」に毎月載せているので、見てくださっていますか ☆
〔第6回〕で、「真葛香山の贋作は、本物の何十倍もある。98から99パーセントがニセモノだ」
という、お話をいたしました。
森香洲作品も、真葛香山ほどでは ありませんが、ニセモノが多い
と、いう事を知っておいて下さい。
エエ−ッ!って言わないで下さい ☆
絶対にニセモノの無かった伊万里焼でも、
最近は、MADE IN 中国 などの古伊万里(?)が、よく出るようになりました。
伊万里焼も高くなって、贋作を造っても採算が合うようになったということです。
骨董市でも、兎を描いた蕎麦猪口などは驚くほど高いです。
自称「古伊万里の値を決める男」・中島誠之助が、値段を吊り上げたせいでしょうか。
伊万里焼のことは、いいですよね ☆
森香洲作と言われているものにも ニセモノが多いという、お話をしていました。
[備前虫明焼] 193ページ・ [増補改定備前虫明焼] 319ページに、
虫明窯昭和初期の香洲贋印と、昭和初期京都製香洲贋印が載っています。
[虫明焼の記録] 47〜49ページにも、
現代虫明窯の贋印と、京都製香洲贋印が載っているので、参考にしてください。
と、いうことなんですが、
真葛香山には真葛香山の、森香洲には森香洲の仕事(技・個性)があります。
作品の個性を感じ取っていただくのが、一番だと思います。
< 虫明梅文抹茶碗 森香洲 造 >
ただ残念ながら、骨董屋さん(古美術店)にも、森香洲以前のものは、まず出てきませんね。
骨董屋さん(古美術店)が、「古い虫明焼が、入っていますよ」 と、言っても、せいぜい、
横山香寶(よこやまこうほう・1869〜1942年)か、
岡本英山(おかもとえいざん・1881〜1962年)あたりです。
ええ、横山香寶作品もいいですよ、岡本英山作品もいいですよ。
でも、、横山香寶には横山香寶の仕事(技・個性)、岡本英山には岡本英山の仕事(技・個性)
そして、森香洲には森香洲の仕事(技・個性)が、あるということです。
陶工(陶芸家・作家)の仕事(技・個性)が、作品に表れるということです。
私の父親も、森香洲が好きでした。
でしたというのは、残念ながら、先月・7月17日に他界いたしました。
父と私の集めた森香洲作品を、「蓼純Collection」の頁に載せますので、ご覧になってください。
森香洲の作風を、感じ取ってください。
あっ、そうそう 実物がありましたね、太田巌の虫明焼コレクションです。
元の邑久町立中央公民館です。
今は、瀬戸内市立中央公民館っていうのかな(?)
ネットで調べて見ましょうか ・・・
瀬戸内市邑久町公民館、と言うみたいですね。
でも、太田コレクションのことは、なんにも書いていないホームページです。
焼き物(虫明焼)には、まったく興味のない人が、邑久町公民館のHPを作ったんですね。
寂しいなー ・・・ 寂しいです。
岡山市民の私・蓼純が、文句をいってもダメか。
寂しがりながら、今回は、これで終わります。
残暑きびしき折です、お身体には気をつけてください ☆
ええっと、次回は・・・
ええっと、なにを話そうかな・・・
〔追記〕
上に、森香洲の梅文抹茶碗の写真を追加いたしました。
梅の絵付けは、橋本松陵(はしもとしょうりょう・1871〜1839年) です。
良い抹茶碗です。
父も大切にしていた抹茶碗ですが、ちょっとした事故で割れてしまいました。
この割れた香洲の抹茶碗を、松本木公(まつもともっこう・松本学の父)が、
金直し(金継ぎ)をしてくれました。
器用な人だったようで、金継ぎのプロではありませんが、いい仕事をしています ☆
私・蓼純も、森香洲作品は数十点もっていますが、あえてこの抹茶碗を最初にUPしました。
また他の回で、金継ぎをしてない香洲作品の写真を掲載したいと思っています ☆
〔第10回〕 2005.12.25
瀬戸内市邑久町公民館のホームページには、虫明焼のことは、なんにも載っていない。
と、前の回で話しました。
< 瀬戸内市邑久町公民館 >
でも後日、見ていたら虫明焼のページが作られていました。
製作途中だったんでしょうね、 失礼いたしました。
「虫明焼展示室(太田コレクション)のご案内」 を、クリックすると、
太田コレクションと虫明焼についての説明が詳しく載っています。
収集品の写真も載っています。
いいホームページです、ご覧になってください ☆
それでは本題に入ります、虫明焼は主に茶陶を造ってきました。
これは何度も、お話いたしましたね ☆
虫明焼の茶陶を代表するものは、水指でしょうか。
その中でも、一番有名なのが、月に雁の絵・落雁水指です。
文久二年(1862年)、伊木三猿斎(いぎさんえんさい)が、
虫明窯を森角太郎(もりかくたろう)に譲渡しました。
森角太郎というのは、森香洲(もりこうしゅう)の父親です。
ここから、民窯の虫明焼がスタートしました。
民窯です。
窯の採算を考えれば当然、茶陶以外の日用雑器も焼きます。
森角太郎窯に、兵庫県・野田焼(龍野焼)の陶工(陶芸家・作家)が二人来窯しています。
赤松平右衛門(あかまつへいえもん)と、永田宗右衛門(ながたそうえもん)です。
したがって、虫明焼の雑器は、野田焼(龍野焼)の影響を強く受けています。
〔第5回〕 で虫明焼の先生は、野田焼だ。 と、お話しいたました ☆
[兵庫のやきもの] 青木重雄著にも、
「野田焼は、虫明焼などとかなり交流があったようで・・・」
と、書かれています。
虫明で焼かれた日用雑器には、徳利、鉢、皿、花入れなどがあります。
野田焼と姿かたち、製法、そして絵付けが酷似しています。
私・蓼純は、茶陶も好きですが、日用雑器のほうが好きです ☆
虫明焼茶陶の代表が、月に雁の絵・落雁水指なら、虫明焼雑器の代表は、掛け分け徳利です。
掛け分け徳利(掛分徳利) 見たことが無いって言う方 いらっしゃいますか(?)
桂又三郎の[備前虫明焼]の135〜137ページには、掛分徳利の写真が何本か載っています。
[増補改定備前虫明焼]では、88〜94ページです。
「蓼純Collection」のページにも写真を載せましたので、ご覧になってください。
昔は、どこの骨董屋さん(古美術店)の棚にも、掛分徳利が2〜3本は並んでいました。
今は、掛分徳利も出なくなりました。
骨董屋さんに行っても、まず掛分徳利は置いていないです。
一升入りのものが一番多いんですが、五合とか、二合入りのものもあります。
そういえば、太田コレクションの掛分徳利は五合徳利でしたね。
釉薬の掛け方は・・・
私がヘタな説明をするよりは、[虫明焼の記録] 423ページに載っている、
元倉敷民芸館長・外村吉之介(とのむらきちのすけ1898〜1993年)の文を引用させてもらいます。
虫明焼のエックスびん
この徳利はおよそ二リットル入りのものです。形はややひきしまっていませんが、なかなか近代的な
模様がつけてあってたいへん明快です。これは昔風に「輪鼓(りゅうご)模様」又は「たすきがけ」と
呼べばいいかと思われますが、丁度Xの字に見えるので「エックスびん」と呼んでみました。
このX模様はまことに簡単に生れます。筆で描くのではありません。形ができ上がったのを白い液体
のくすりの中へ斜めにつけますと、右肩の上から左下へつづく直線ができます。曲がって見えるのは
戦後、電柱などに黒と黄色をぬってあるのが、柱の丸みで曲がって見えるのと同じです。右側の黒い
部分も同じように黒い釉薬につけます。Xの上部だけは二つの色が重なるわけです。このような明快な
結果は自然の法則に教えられた仕事のたまものです。このような美しさを「工芸的」というのです。
岡山県邑久郡邑久町の産。
以上が、外村吉之介の解説文です。
「曲がって見えるのは戦後、・・・」 説明文も、骨董品ですね ☆
外村吉之介の言う黒い釉薬(暗褐色)は、鉄釉をつかいます。
それで、白濁色と、暗褐色、二釉の混じったところが、なまこ釉(色)という感じになります。
もちろん、何も釉薬の掛かっていない、土(胎土)を見せている部分もあります。
釉薬が混ざらない白濁色の部分に、
梅とか、菊とか、蘭とか、竹とか、松とか、舟などの絵を描いています。
残念ながら、外村吉之介が名付けた「エックスびん」っていう言葉は、定着しませんでした。
残念ではないか・・・
「エックスびん」よりは、「掛分徳利」って言葉の方が、いいですよね ☆
掛分徳利も少なくなりましたが、私の知り合いには、五十本以上集めている人がいます ☆
五十本並べてみると、掛分徳利と一口に言っても、いろいろなものがあります。
口を指で押さえて雀口にしたもの、釉薬を何重にも掛けたもの、
古いもの、新しいもの、大きいもの、小さいもの・・・
また絵付けも、鉄釉(銹絵)、染め付け、稚拙なものから熟達したものまで まさに色々です。
表情というか、表現力が一本一本すべて違っています。
十本十色、五十本五十色です。
五十本の徳利には、五十本の美があるということを教えられます。
陶工(陶芸家・作家)の銘(印)、むしあけ印が入ったものは、掛分徳利には無いようです。
虫明焼の雑器は、野田焼(龍野焼)の影響を強く受けています。と、お話いたしました。
でも、掛分徳利は、野田焼からの流れでは無いと思います。
絵付けは、野田焼と似たようなものもあるのですが・・・
池上千代鶴は [虫明焼の記録]に、
掛分徳利は、「真葛香山 (まくずこうざん) の創案説に加担する。」
と、著いています。
そうかもしれません。真葛香山は九州の帰路、虫明に滞在し制作しました。
唐津などには、掛分けにしたものが、よくあります。
それに、真葛香山作らしい(?)掛分け徳利も残っています ☆
次回は、また森香洲(もりこうしゅう)について、お話する予定です。
掛分徳利には、陶工(陶芸家・作家)銘(印)、むしあけ印が入ったものは、無いようです。
と、お話いたしましたところ、
某虫明焼研究・愛陶家から、
「むしあけ印の入ったものもある」 と、コメントをいただきました。
そう言われてみると、私・蓼純も、一升徳利に銘(印)の入ったものは見たことはありませんが、
五合徳利では、むしあけ印の入ったものを見たことが有るような気がいたします。
ただし、古いものには 印は入っていないようですね ☆
コメントをいただき、ありがとうございました。
〔また追記〕
「蓼純Collection」のページには掛分徳利の写真を載せていたのですが、
すでに削除しているので、下に掛分徳利の写真を追記しました。
鉄釉(銹絵)で、梅を描いています。
四君子(蘭・竹・菊・梅)の絵を描いたものが多いです。
この掛分け徳利は鉄釉で絵付けをしていますが、ゴスで菊の絵などを描いたものもあります。
上の掛分け徳利は、高さ30.5cmですが、あと少し高い32.0cm位のものの方が姿が良いです。
一概には言えませんが、32.0cm位のものの方が時代もやや古いようです。
〔第11回〕 2006.04.22
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)は、
明治3年(1870年)に虫明
から京都に帰り、翌年に横浜で開窯します。
真葛香山の いなくなった虫明焼ですが、
森香洲(もりこうしゅう・1855〜1921年)などが、森角太郎(もりかくたろう)窯に従事します。
森香洲は、真葛香山の初めての弟子です。
森角太郎の長男で、名は彦一郎。
真葛香山の指導を受けた 森香洲、久本葛尾(ひさもとくずお)、田中巴石(たなかはせき)、
兵庫県野田焼(龍野焼)から来た赤松平右衛門(あかまつへいえもん)、それに
永田宗右衛門(ながたそうえもん)などの活躍により、虫明焼の評価は一躍高まります。
明治13年発行の岡山県勧業課の年報によると・・・
虫明窯の焼度数は一年間に8度、職工数が13人と記されています。
同じ年の備前焼の職工数が、27人です。
虫明焼の職工数が、備前焼の職工数の約半数です。
虫明焼が、健闘していました。
現在では、考えられませんね ☆
今は、備前焼の陶工(陶芸家・作家)数の100分の1 から150分の1位でしょうか(?)
このころ(明治10年前後)が、最も繁栄していたんでしょうね。
明治9年(1876年)の9月には、
岡山市の旭川西岸(岡山市天瀬)に、大規模な陶器製造所が設立されます。
天瀬陶器製造所(あませとうきせいぞうしょ)・旭焼(あさひやき)です。
旭焼の薩摩焼風(岡山薩摩)花入れ(花瓶)を、私も見たことがあります。
輸出用の大きな花瓶でした ☆
明治10年(1877年)には、この旭焼に、虫明焼の名工・久本葛尾、田中巴石が移ります。
虫明焼繁栄の時期も長くは続きません、主軸であった名工がいなくなりました。
加えて、物価の高騰が続き世の中が大不況であったため、焼き物が売れない時期が続き、
虫明焼・森角太郎窯も衰退の一途を辿り、ついに、明治13年(1880年)3月に倒産しました。
しかも、明治9年(1876年)に設立された、岡山市の天瀬陶器製造所・旭焼も、
明治15年(1882年)には、営業不振から閉鎖となってしまいます。
六古窯の一つである備前焼でさえも、
「土管や赤煉瓦の窯を築き、工業化を目指していきます」
と、目賀道明が [備前焼] に書いています。
焼き物に陽が当たらない時代に、森香洲は、師・真葛香山を頼って横浜に赴きます。
森香洲は、真葛香山の技を、更に習得していきます。
明治13年(1880年)の12月から、明治15年(1882年)4月まで横浜に滞在しました。
森香洲が、横浜から虫明に帰った翌年・明治16年(1883年)には、
横山喜代次(よこやまきよじ)、横山喜八(よこやまきはち)が森香洲の弟子となり製陶を始めます。
兄の横山喜代次が初代横山香寶(よこやまこうほう)、弟の横山喜八が二代横山香寶です。
しかし、森香洲と初代横山香寶は、
明治19年(1886年)の秋に、再び 師・真葛香山を頼って横浜に行きます。
その滞在は長く、7〜8年に及びました。
一方、岡山県倉敷市の酒津(さかづ)窯でも、陶磁器の輸出を計画します。
そこで、横浜にいた森香洲と初代横山香寶は、明治26年(1893年)に酒津窯に招かれました。
しかし輸出事業がうまくいかず、翌年・明治27年(1894年)4月には、森香洲と初代横山香寶は
酒津から虫明に帰ります。
森香洲が酒津窯で仕事をしたのは、一年ほどです。
その後、明治29年(1896年)に設立された虫明陶器製造所に従事していましたが、
虫明陶器製造所が経営不振で、明治32年(1899年)に廃窯します。
森香洲は、阿漕(あこぎ・三重県)窯にも行っています。
阿漕焼も廃窯、復興を繰り返し、明治34年(1901年)に阿漕焼製陶会社が設立されました。
森香洲が阿漕に行った年度は判っていないのですが、明治34〜35年頃だと推察します。
この間、虫明の窯に、火が入らないことが多かったんでしょうね・・・
突然 話は変わりますが、テレビ東京の「開運なんでも鑑定団」って言う番組がありますね ☆
その番組が、岡山県邑久町に来たことがあります。
「出張なんでも鑑定団in邑久町」 です。
この時、森香洲が横浜で真葛香山から直接もらった、白磁子安観音像が鑑定に出され
ました。
残念ながら窯キズがあるのですが、出場者は 「窯キズがあるから貰えた」と話されていました。
「うーん。いやー・・・ いい仕事していますね」 の中島誠之助が鑑定して、
本人(森)の評価額・1,000万円に対して、鑑定額700万円ということでした。
まあ、鑑定額というのは・・・ 鑑定額です ☆
この観音像の写真は、
[備前虫明焼] 110ページ第63図、[増補改訂備前虫明焼] 256ページ第60図に載っています。
観音像の背部に、「明治二十年孟春 子安観音大士三體作真葛画」 と刻んでいるようです。
TVのほうが、本よりは判りやすかったですけどね。
本で見た感じよりは、大きなものでした。
今回は、これで・・・
「蓼純Collection」のページに酒津焼か、阿漕焼の、森香洲作品を載せたいところです。
しかし、私も残念ながら、そのようなものは持っていません ☆
森香洲作 虫明焼 松文の抹茶碗を載せましたので、ご覧になってください。
〔追記〕
天瀬陶器製造所・旭焼について、桂又三郎著[岡山の焼物]から抜粋しておきます。
[岡山の焼物]をお持ちの方は、94〜98ページをご覧ください。
「岡山県令高崎五六が、生活に困窮していた岡山市在住の無産士族を救済する目的で
陶器製造所を設けた。
明治九年九月岡山市天瀬に築窯し、薩摩焼の陶工沈周石と沈古城外一名と、画工一名、
築窯工一名、それに京都から画工三名を呼んで創立し、明治十年二月開業した。
作品は美術用と実用の二本建にし、主として海外へ輸出するのが目的であった。
事業が比較的順調に進んでいた明治十三年には、従業員も百余名に増した。」
と、著いています。
旭焼作品は、[岡山の焼物]95ページに、染付盃洗と絵付植木鉢、
97ページには遊環花瓶のモノクロ写真が載っています。
「あさひやき」と聞いて、「旭焼」と思う人は、岡山でも まずいないですよね ☆
遠州七窯の 「朝日焼(京都)」 が有名です。
私・蓼純も岡山県立博物館で旭焼の花瓶を見たことがありますが、輸出向けの大きな作品でした。
97ページの遊環花瓶もサイズは記されていませんが、これも大きな花瓶だと思います。
今では天瀬陶器製造所・旭焼の跡地に岡山市立市民病院が建ち、その跡形さえもありません。
天瀬陶器製造所・旭焼については、資料、製品もほとんどなく、まさに幻の焼きものです。
[図録・宮川香山]・岡山県立美術館発行に、「明治の輸出陶磁器 岡山旭焼と姫路永世舎」
の表題で、旭焼について野崎家塩業歴史館の宮崎学芸員が寄稿されています。
旭焼に興味のある方は、[図録・宮川香山] 158頁をご覧ください。
〔またまた追記〕
[図録・宮川香山]には、上でお話した「開運なんでも鑑定団」に出た白磁子安観音像の
写真も載っています。
[図録・宮川香山] 110頁207図です。高さは60cmと記されています。
底部に、「明治二十年孟春 子安観音大士三體作 真葛香山」 と彫っています。
そういえば、「開運なんでも鑑定団」に出演された方が、「三體のうち一體は明治天皇に献上した」
と、話されていました ☆
私・蓼純も、岡山県立美術館に展示されたときに拝見いたしました。
息を呑むような、とても素晴らしい作品です。
〔まだ追記〕
「蓼純Collection」のページに、
森香洲作 虫明焼 松文の抹茶碗を載せましたので、ご覧になってください。
と、言ったのですが、削除しましたので再びここに載せました。
〈 虫明松文抹茶碗 森香洲作 〉
窯変(ようへん)が出た 香洲の筒茶盌です。
松が朝靄(あさもや)に包まれています。
〔第12回〕 2006.08.08
前回、虫明焼の名工・久本葛尾、田中巴石が、明治10年(1877年)に、
岡山市の天瀬陶器製造所・旭焼に移った と、お話いたしました。
この二人について、少し解説をしておきます。
久本葛尾(ひさもとくずお・1845〜1918年)は、本名を久本才八といいます。
旧邑久郡裳掛村の出身です。
虫明焼・森角太郎窯の主軸として、虫明焼に従事していました。
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)が、明治初年に虫明に来たときに、
真葛香山の陶技指導を受けています。
そして、銘を「葛尾」 としています。
葛尾の「葛」は、真葛香山の「葛」の字をもらっています。
久本葛尾は、虫明焼から岡山市の天瀬陶器製造所(旭焼)へ明治10年(1877年)に移る。
明治13年(1880年)、伊部陶器会社創立の時指導者として伊部に赴く。
明治20年(1887年)頃、森琳三の工房に移り、
その後備前陶器会社に入社し、備前焼を造った。
「葛尾」 印の入った備前焼の煎茶器とか、花入れが、骨董屋さんにも、ときどき出ます。
「葛尾」 印と、「備前陶森」 あるいは「備前森製」 の印が入ったものが多いです。
ついでに、押印の仕方について言いますと、葛尾は常に印を丁寧に鮮明に捺しています。
以前にも、お話をしたことがありますが、印を鮮明に丁寧に捺すのは師の真葛香山、
それに森香洲も同じです。
その久本葛尾の、天瀬陶器製造所(旭焼)時代の作と思われる湯呑みを、
「蓼純Collection」のページに、載せておきます。
湯呑みですが、さすがに轆轤(ろくろ)は冴えています。
内側には、輝度の高いクリーム色の釉が掛かっています。外側は無釉です。
高台内には、「葛尾」の印が鮮明に丁寧に捺されています。
日用雑器として、大量に造られた内の一つでしょうね。
虫明での久本葛尾作品は、本にも載っていません。
ただ、備前で造った水注の写真が、[備前虫明焼]174ページ第133図に載っています。
いい水注ですね ☆
この水注は、久本葛尾作で問題はありませんが、「葛尾」印は入っていないと思います。
私・蓼純は、同じ形の「無印」の備前焼の水注を見たことが有ります。
備前焼の久本葛尾作品は、私も煎茶器、茶入れ、花入れなど、何点かもっています。
久本葛尾作品を見ると、いわゆる備前焼とは違うことが判ります。
久本葛尾は備前に行っても、虫明を そして、虫明焼の心・技を忘れていません。
備前の土(粘土)で、備前の窯(火・薪)で、虫明焼を造ったように私には感じられます。
田中巴石(たなかはせき・1855〜1919年)は、本名を田中庄四郎といいます。
旧邑久郡裳掛村の出身です。
巴石は、久本葛尾と虫明焼・森角太郎窯に従事していました。
従って、田中巴石も、真葛香山が明治初年に虫明に来たときに、真葛香山の指導をうけています。
田中巴石の作品は、[増補改訂備前虫明焼] 131ページ第152図に急須の写真が載っています。
田中巴石も久本葛尾と、虫明焼から岡山市の天瀬陶器製造所へ明治10年(1877年)に行きます。
その後、天瀬陶器製造所から閑谷焼(しずたにやき)、赤穂焼(兵庫県)と移った後に、
明治31年(1898年)頃に、岡山市の正覚寺境内に窯を設けて独立します。
明治40年(1907年)には、岡山市の御後園(後楽園)の窯跡に残夢軒という亭をつくり、
窯を再興しました。
銘(印)は、「巴石」印あるいは、「陶庵」印を捺しています。
後楽園・お庭焼というのは、楽焼です。
私・蓼純は、低温で焼成された楽焼は、好きではありませんが、
一楽、二萩、三唐津などと言われ、楽焼は茶人には高く評価されています。
初代が巴石(田中庄四郎)、二代が息子の波石、三代が坡石(難波朔)、四代が把石(難波孝雄)と、
「はせき」の、「は」の字を、それぞれの代によって変えています。
私も、初代・田中巴石の虫明焼は、もっていません。
巴石のものは、後楽園焼の達磨の香合が有るだけです。
二代波石は、虫明・岡本英山窯にきて何度か制作しています。
「於虫明 波石造」 と銘を入れたものを見たことがあります。
二代波石の虫明焼作品は、持っていないのですが、後楽園焼・木の葉形の銘々皿は有ります。
[増補・改定備前虫明焼]には、波石が虫明で造った作品が二点載っています。
177ページ・第229図・利休居士像と、178ページ・第230図・羊水滴です。
今回はこれで終わります。
暑い日が続きますが、お身体に気をつけてください ☆
また、涼しくなりましたら、更新いたします。
〔追記〕
「野崎家のやきもの 虫明焼」 という企画展が、野崎家塩業歴史館で開かれた時に、
「はせき」 の作品が展示されました。
初代田中巴石の手鉢(てばち・菓子器)と、二代田中波石の狸の形をした炉蓋(ろぶた)です。
この企画展の二代波石の狸の炉蓋は、道八写しですが すごく上手でした。
そういえば、[増補・改定備前虫明焼] 177ページの利休居士像も、上手く作っていますね ☆
二代田中波石は、細工物(?)が得意なのでしょうか。
逆に、初代田中巴石の手鉢を見ると、巴石は名工だったとは言い難いですね ☆
森香洲,久本葛尾が、真葛香山から一字もらって銘をつけたのに対して、
田中巴石が、そう出来なかった理由が判る気がいたします ☆
〔また追記〕
この水注は、久本葛尾作で問題はありませんが、「葛尾」印は入っていないと思います。
私・蓼純は、同じ形の「無印」の、備前焼の水注を見たことが有ります。
と、お話いたしましたが、その後
「葛尾」 印と、「備前陶森」 印を併押したものを見ましたし、
私も同じ形の水注を入手しました。それにも、「葛尾」 印が入っていました ☆
この形の水注の銘(印)は、
「無印」 のもの、「葛尾」 印だけのもの、「葛尾」、「備前陶森」 印を併押したものがあるようです。
同じ形の水注を、久本葛尾は十数点造ったのでしょうか(?)
〔またまた追記〕
私・蓼純は、久本葛尾の、天瀬陶器製造所(旭焼)時代の作と思われる湯呑みを、もっている。
と、お話いたしました。
旭焼の花瓶を、もたれている倉敷の方が私宅に来られましたので、尋ねてみました。
蓼純 「この葛尾印を捺している湯呑みは、旭焼だと思うのですが、どうですか(?)」
倉敷 「 ・・・ 」
蓼純 「旭焼らしくないですか(?)」
倉敷 「と言うより、この湯呑みを、どうして旭焼と思うのか、逆に聞きたいです」
と、言われてしまいました ☆
私・蓼純も、旭焼が薩摩風(岡山薩摩)の花瓶等を、輸出していたと言うのは知っています。
確かに、この湯呑みを岡山薩摩でINしたら、旭焼ではないです ☆
でも、久本葛尾でINしたら、旭焼です ☆
久本葛尾は、虫明焼から旭焼に行き、その後備前焼に行っています。この三窯だけです。
すなわち、久本葛尾が造ったものは、虫明焼か、旭焼か、あるいは備前焼です。
この湯呑みは、虫明焼ではない、備前焼でもない、つまり消去法で旭焼になります ☆
旭焼は、輸出用の岡山薩摩以外にも、岡山周辺の住民向けに 日常雑器も生産していた。
と、私は思っています。
旭焼の研究家が、「旭焼は、こんな日常雑器も造っていた」
と、発表される日を、葛尾の湯呑みと一緒に待っています ☆
〔まだ追記〕
久本葛尾は虫明窯で、真葛香山から直接陶技を授かった陶工(陶芸家・作家)です。
備前焼に従事したが、備前焼陶工(陶芸家・作家)の中でも、突出したロクロ技術を有していました。
桂又三郎は、[明治の備前焼] 199ページに
「明治年間の名工はロクロものでは久本葛尾、細工物では三村陶景、永見陶楽の三人であろう。」
と著いています。
〔第13回〕 2006.10.15
「今月の抹茶碗」 の頁でも紹介いたしましたが、
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)作の花入れ一対が岡山県にやってきました。
倉敷市立美術館の やきものの美 東京国立近代美術館工芸館名品展 です。
開催期間は、平成18年9月15日から10月29日
東京国立近代美術館の所蔵品約120点が、倉敷市立美術館で公開展示されました。
真葛香山作品は、「鳩櫻花図高浮彫花瓶(きゅうおうかずたかうきぼりかびん)」一対です。
出不精の私・蓼純も、いってみました。
倉敷を歩いたのは、20年ぶり位でしょうか。
岡山駅から倉敷駅まで、JRのサンライナーという名の列車で、わずか11分。
速いですね、倉敷って近いんですね ☆
ところで、「鳩櫻花図高浮彫花瓶」の制作年ですが、
明治4年(1871年)〜明治15年(1882年)と、出品目録に記されています。
横浜に移ってからのことが、こんなに判っていないんですね・・・
制作年が、11〜12年も開きがあります。
横浜では最初は薩摩焼風(横浜薩摩)、その後・明治10年頃から高浮き彫り作品を造っています。
この花瓶は高浮彫ですが、花瓶の上部と下部に、横浜薩摩の名残をとどめているので、
高浮き彫り作品としては、比較的初期のものと言えると思います。
この「鳩櫻花図高浮彫花瓶」をみると、日本の美を輸出しようとしています。
高浮き彫りも後期になると、相手(買い方)に合わせた日本の美とは無縁のものになっていきます。
素人判断で恐縮ですが、「鳩櫻花図高浮彫花瓶」の制作年は、明治10年(1877年)ごろに、
絞っても良いのではないかと思います ☆
倉敷市立美術館には、真葛香山の作品を見るために行ったわけですから、殆どの時間
「鳩櫻花図高浮彫花瓶」だけをみていました ☆
高浮彫りの「渡り蟹水盤」を、みたかったなあ・・・
贅沢を言ってはいけませんね、鳩が東京から岡山まで飛んで来てくれたのですから・・・
岡山県で、東京国立近代美術館所蔵の名品をみられるなんて、感謝、感謝、感謝 ☆
「蓼純Collection」の頁には、真葛香山の虫明焼釣瓶水指の、写真を貼っておきます。
森香洲(もりこうしゅう)まで、進んでいましたが、また真葛香山に戻ってしまいました。
「三歩進んで、二歩下がる」 と、いうところですね ☆
でも、虫明焼と真葛香山は、切っても切れないところですから・・・
また、更新いたします。
渡り蟹水盤は、東京国立近代美術館ではなく、東京国立博物館所蔵でしたね ☆
「蓼純Collection」の頁には、真葛香山の虫明焼釣瓶水指の、写真を貼っておきます。
と、お話いたしましたが、「蓼純Collection」の頁は既に削除していますので、ここに
真葛香山作の虫明焼釣瓶水指の、写真を掲載いたします。
なお、〔第8回〕の 〔まだまだ追記〕 にも 違う角度から撮った写真を載せています。
〔またまた追記〕
東京国立近代美術館所蔵の 「鳩櫻花図高浮彫花瓶」 の写真を上に追加しました。
〔第14回〕 2006.11.19
前回、倉敷市立美術館の、「やきものの美」展 を、紹介いたしました。
今回は、岡山県立美術館の常設展「岡山の美術」を紹介しておきます。
日本画、洋画、工芸品の展示がされています。
工芸品のコーナーに、虫明焼が三点展示されています。
「虫明赤絵鉢 初代清風与平 個人蔵」 と記されています。
菓子鉢です。
これは、桂又三郎の[増補改定備前虫明焼]に、写真が載っていたはずです。
[増補改定備前虫明焼] の48ページ第21図です。
茎と葉は、鉄絵で描いて、花を上絵付けしています。
清風与平(せいふうよへい)の虫明焼作品は、非常に少ないです。
ええ、虫明滞在期間が短いですからね。
この機会に、ご覧になってください。
でも、この菓子鉢は、初代清風与平の虫明焼作品ではない、 かも知れません ☆
京都で造られたものだ と、思います。
次が「虫明染付手付樽(楠渓下絵) 宮川香山」です。
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)作、磁器の酒注ですね ☆
絵付けは、楠渓幽人(なんけいゆうじん)が染付けています。
昭和32年(1957年)11月、岡山県重要文化財になっています。
[備前虫明焼]の103ページ第52図、[増補改定備前虫明焼]の67ページ第48図、
それと[虫明焼の記録]の356ページに写真が掲載されています。
[邑久町史・文化財編]151〜153ページにも載っています。この写真がベストですね。
楠渓幽人については、よく判らないと言うことを、〔第7回〕でお話しいたしました ☆
あと一点は、「虫明太鼓胴水指 岡本英山」です。
この水指は、いいですね。
英山の力作です。
いい色に、あがっています。
岡本英山(おかもとえいざん)は、虫明焼の復興に大きく貢献された方です。
また、改めて詳しくお話いたします。
以上の三点が、岡山県立美術館の常設展「岡山の美術」に展示されています。
開催期間は、12月3日の日曜日迄です。
それと、いま活躍されている 黒井千左(くろいせんさ)が、作陶展をします。
「還暦記念 虫明焼 黒井千左 作陶展」です。
こちらは、天満屋岡山店5階の美術画廊です。
11月21日の火曜日から、11月27日の月曜日迄です。
前回、今回と展覧会の紹介になってしまいました ☆
次回は、森香洲(もりこうしゅう)の、お話に戻ります。
朝夕寒くなりましたが、風邪などひかないようにして下さいね ☆
〔追記〕
「虫明太鼓胴水指 岡本英山 個人蔵」も、[増補改定備前虫明焼]に載っていました。
カラー写真ではありませんが、168ページの第215図です。
写真が良くありませんが、塗り蓋ではなく、共蓋です。
共蓋の表は、釉薬(ゆうやく)を黒く発色させており、裏は細かく模様を染付けています。
〔また追記〕
上に、虫明染付手付樽(楠渓下絵) の写真を追加しました。
持ち手の中央部分に、直しがあります。
無傷だったのですが、岡山県重要文化財になった時に、
取材に来た某新聞社の記者が、落として壊したものです。
〔第15回〕 2007.02.04
今回は、森香洲(もりこうしゅう・1855〜1921年)の話に戻ります。
〔第11回〕で、森香洲が明治27年(1894年)4月に、倉敷市の酒津窯から虫明に帰ってきた。
と、言うところまでお話いたしました。
明治28年(1895年)の秋に、土地の有力者から、虫明の窯を復興させようとの議がもち上がり、
翌年・明治29年(1896年)11月に、合資会社・虫明陶器製造所を創立しました。
その虫明陶器製造所で、森香洲が職長になります。
森香洲の雅品の多くは、この窯で生まれた と、言われています。
森香洲の作品の絵付けは自筆、伊原春耕(いはらしゅんこう・〜1905年)、あるいは
橋本松陵(はしもとしょうりょう・1871〜1939年)などが描いています。
明治時代は、抹茶より煎茶が一般的であったため、森香洲も、煎茶器を多く焼いています。
私・蓼純も、森香洲作の煎茶器を何組か、もっています。
その虫明陶器製造所も、明治32年(1899年)に、経営不振で廃窯となってしまいます。
森香洲は、漁業組合の理事、農業などを行い自適の生活に入ります。
明治38年(1905年)5月に、森香洲は地元の有力者と共同で、虫明陶器製造所を再興します。
この窯・虫明陶器製造所は7〜8年続きましたが、
大正2年(1913年)4月に、経営不振で再び廃窯となります。
森香洲は、真葛香山(まくずこうざん)の奨めで、同年6月に長野県軽井沢の三笠窯へ行きます。
三笠窯は、井高帰山(いたかきざん・歸山・井高香溪・1881〜1967年)が、
明治41年(1908年)3月まで、従事していた窯です。
井高帰山は、大正になって、再び三笠窯(あさま焼)に行っているので、
森香洲も、井高帰山と一緒に仕事をしていた事が有ったのだと思います。
なお、森香洲は大正2年(1913年)11月に、三笠窯から横浜の真葛窯へと移ります。
軽井沢は避暑地ですから夏は快適ですが、冬は寒いんでしょうね。
大正3年(1914年)5月に、横浜の真葛窯から再び軽井沢の三笠窯へ行き、
その年の秋に虫明へ帰ってきます。
大正7年(1918年)7月には、備前焼株式会社・虫明焼工場が創立します。
森香洲は、備前焼株式会社・虫明焼工場で職長として製陶に従事しましたが、
大正9年(1920年)には、辞職しています。
この虫明焼工場には、森香洲、初代横山香寶、それに岡本英山の三人が従事しました。
森香洲は、翌年・大正10年(1921年)12月に、66歳で多難な人生に終りを告げます。
備前焼株式会社・虫明焼工場も、大正13年(1924年)には廃窯しています。
[備前虫明焼]、[増補改定備前虫明焼]と、[虫明焼の記録] からです。
よく調べられていますね。
著者・桂又三郎(かつらまたさぶろう)と、池上千代鶴(いけがみちよづる)、
この二人ほど虫明焼を愛し、研究されたひとはいません。
森香洲は、窯を運営していくという、命題にまさに悪戦苦闘の一生だったんでしょうね。
焼き物を造ることよりも、焼き物を売ることのほうが、何倍も何十倍も大変です。
しかし、森香洲の苦労の連続が、現在の虫明焼茶陶の基礎を築いたわけです。
名工・森香洲は抹茶碗、水指、菓子鉢、煎茶器など多くの優品を遺しました。
森香洲の作品は、瀬戸内市邑久町公民館にも展示されています。
そうです、太田コレクションです。
太田コレクションは、虫明焼の参考書ですからね ☆
[邑久町史・文化財編]によりますと、太田コレクションの森香洲作品は、21件あるそうです。
私・蓼純も、森香洲作品を中心に集めています。
「今月の抹茶碗」で、森香洲の十二ヶ月抹茶碗を毎月紹介しています。
「蓼純Collection」でも、森香洲作品を、何度か紹介いたしました。
実物を、みていただける機会もまた あるのではと思っています。
森香洲作品は、
[備前虫明焼]、[増補改定備前虫明焼]、[古虫明・現代虫明焼]にも写真が載っていますね。
森香洲が、大正の初めに軽井沢の三笠窯で造った黒釉茶碗も載っています。
[備前虫明焼]156ページ第117図、[増補改定備前虫明焼]320ページ第121図、第122図が
森香洲作・三笠窯黒釉茶碗と記されています。
でも、第121図の説明は、「高井」 押印と書かれています。
したがって、森香洲作ではありません ☆
そして、「高井」ではなく「井高」でしょうね。
井高帰山作だと思います ☆
真葛香山は、井高帰山の白磁の技術を高く評価していました。
出石陶磁器試験所(兵庫県)の技師であった井高帰山を、横浜に招いています。
井高帰山も、真葛香山の奨めで明治40年頃と、大正の初めに三笠窯で制作しています。
今回で、とりあえず森香洲のお話は終了いたします。
「蓼純Collection」のページに、森香洲作 鶴の絵抹茶碗を載せておきます。
いい抹茶碗です ぜひご覧になってください ☆
〔追記〕
大正7年(1918年)7月には、備前焼株式会社・虫明焼工場が創立します。
と、お話いたしました。
当時の新聞記事を、参考に載せます。大正7年9月13日付・山陽新報(現・山陽新聞)からです。
「邑久郡裳掛村大字虫明に於ける虫明焼は国老伊木長門守が御庭焼として邑久郡に於ける唯一
の陶器にて、国老の権勢の下に其臣郷司源右ヱ門をして担任奉行とし、京都より清風与平を、
或は播磨より永田宗左ヱ門、赤松平左ヱ門を、或は京都の名工宮川真葛を傭用し、安南又は
織部、白絵懸、乾山等の模擬品はじめ、又は染付、呉須絵の磁器を製造し、邑久僻陬地の陶器
は斯くして、横浜に於て海外人の高評を博したりしに、国老の退転は虫明焼の生命に一大鉄槌を
与へ悲運に陥りしを以て、有志は之が復興に焦心せしも、遂に明治末年を以て廃業、邑久郡の
名物の跡を絶ちたるは遺憾なりしが、備前焼株式会社大饗専務は同地の納、上森、東原、森氏と
企業の方針を定め、五月下旬工場及竃の修理に着手し、六月に成功したれば、七月より復活せる
虫明焼工場にて、三人の陶工は轆轤の音勇ましく製器に従事し、廃工の舞台は日と共に活気を
呈し、今三、四十日の後に久しく中絶せし虫明焼は市場に現るるに至るべし。 (吉岡三平報)」
〔また追記〕
大正2年(1913年)6月に、森香洲は真葛香山の奨めで、長野県軽井沢の三笠窯へ行きます。
と、お話いたしました。
[日本やきもの集成2 東海・甲信越]127ページに、
「三笠焼の特徴は、浅間山噴出物の軽石や熔岩を焼き物の原料に加えている点である。
製陶には、真葛焼(横浜)の宮川香山とその弟子たちを迎えているので、三笠焼にはその頃の
わが国の陶芸のレベルを示すものが多い。」
と、著かれています。
某虫明焼研究・愛陶家から、
[増補改定備前虫明焼]の320ページ第121図と、第122図の写真は入れ替わっている。
と、コメントをいただきました。
確認してみますと、確かに写真が逆に掲載されていますね。
写真が入れ替わっているし、説明文も間違っているので、ややこしいです ☆
[増補改定備前虫明焼]を見られる方は、ご注意ください。
ですから・・・ 森香洲らしい抹茶碗が香洲作で、香洲らしくない抹茶碗が井高帰山作です ☆
もうすこし丁寧に説明しますと、[増補改定備前虫明焼]の320ページの写真、右側の抹茶碗が、
「あさま」と「香洲」印併捺の、森香洲作の抹茶碗です。
左側が、「井高」印を捺した、井高帰山作の抹茶碗です。
大正2〜3年ごろに、三笠 (あさま焼)で焼かれたものです。
コメントをいただき、ありがとうございました。
〔まだまだ追記〕
「蓼純Collection」のページに、森香洲作 鶴の絵抹茶碗を載せていたのですが、
既に削除していますので、ここに再び写真をUPいたしました。
写真を載せたのですが、鶴の絵が分かりにくいです ☆
立鶴ではなく、まさに飛び立とうとしています。
〔第16回〕 2007.07.15
「虫明焼について・蓼純の虫明焼半可通」 のページを、更新いたします。
久々の更新です ☆
前回から、五ヶ月以上経ってしまいました。
まあ、のんびりで、いいですよね ☆
「せまい日本。そんなに、急いでどこへ行く?」 です。
でも、「今月の抹茶碗」 のページは、毎月更新していますからね。
「先月の抹茶碗」 とか、「先々月の抹茶碗」 のページにならないように頑張っています ☆
だけど、五ヶ月以上も経過したら、何を話していたのか、忘れてしまいますね ☆
それでなくても、最近、忘却力がよくなっています。
読み直してみます。
ああ、森香洲(もりこうしゅう)まで、終わっていたんだ。
安心いたしました。
森香洲=虫明焼ですからね。
イコールではないか ☆
何度も、お話しいたしましたが、このホームページ(HP) 「虫明焼の栞」 は、
桂又三郎(かつらまたさぶろう)の[備前虫明焼]・[増補改定備前虫明焼] と、
池上千代鶴(いけがみちよづる)の[虫明焼の記録] が基盤です。
HP 「虫明焼の栞」 は、二人の偉大な研究成果と努力を、このまま風化させてはならない
と、いう思いで 私・蓼純が、岡山市から発信しています。
地味なHPですが、販売目的ではない、広告も載せない、他のHPとリンクしない。
まったく純粋な気持で、お話しています。
虫明焼に興味をもっていただく、そして理解し、楽しんでいただく目的だけのHPです。
パソコンも下手、文章も下手。
そんな私・蓼純が、虫明焼が好きだ というだけで、HP 「虫明焼の栞」を、
よくここまで続けられた と、自分で感心しています。
ずいぶん昔の話ですが、高校生の時に、スポーツの苦手な私は、
消去法で、部活動は文学部に入りました。
もう、すっかり文士気取りです。
他校の文学部との交流、というものがあり、S女子高校に行きました。
私・蓼純も、我高のガリ版刷りの冊子に、エッセイみたいなものを載せていました。
当時は、ワープロもなく高校生が印刷といったらガリ版刷りです。
私の文学作品に、先輩が挿し絵を描いてくれていました。
その文学作品を見た、S女子高生が最初にいった言葉は、
「わあっ、絵日記みたい!」
でした。
ガ〜〜〜ン ★ ★ ★
今だったら、「わあっ、カワイー 絵日記みたい!」 って言ってくれると、思うのですが・・・
その当時は、「カワイー」 は、ありません。
いきなり、「絵日記みたい!」です。
高校生は、あまり絵日記書きませんよね ☆
私・蓼純の文学作品が、絵日記になった、十五歳の夏の日です。
優しい先輩は、「俺の挿し絵が、ヘタだったからだヨ」 と慰めてくれました。
何十年も前の話ですが、いまだに鮮明に覚えています ☆
そんな私が、「虫明焼の栞」などと、いうものを書いているのが、自分でも信じられません。
急に話が変わりますが、過日、
[帝室技藝員 眞葛香山] 田邊哲人(たなべてつんど)著 叢文社発行の本を買いました。
発行2004年9月15日 初版第1刷と書かれています。
[帝室技藝員 眞葛香山]という本が発行されているのは、前から知っていました。
でも、定価が本体25000円+税です。
高いので、どうしょうかなーと思っていたんですが・・・
でも、この手の本って、初版第1刷しか無いですからね。
まず、増刷はされません ☆
と言うことで、手に入る最後かなと思って買いました。
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)の横浜での作品が、これでもかと言うくらい載っています。
よく、これだけの作品を集めたなと、感心してしまいます。
田邊哲人も、大変な苦労を、されたのでしょうね。
輸出磁器である横浜焼・真葛香山作品を、海外から何十点も里帰りさせた方です。
「空白の明治」の中にあり、その素晴らしさのみが語り継がれてきた真葛。
父、長造から初代香山、そして四代までの作品、三〇〇余点を収録。
その全貌が初めてここに姿を現す。
と、本の帯に書かれています。
今回は、中休み、みたいになってしまいました ☆
次回は、横山香寶(よこやまこうほう)の、お話をしたらいいんでしょうね。
「蓼純Collection」のページには、真葛香山が虫明で造った水指を載せておきます。
真葛香山が、虫明で造ったものは、他では、まず見られません ☆
真葛香山作品のニセモノは、よくありますけどね。
この水指はいいですよ ☆
ぜひご覧になってください ☆
〔第17回〕 2007.10.08
今回は、横山香寶(よこやまこうほう)です。
横山香寶と言ったら、ふつう 横山喜八のことです。
しかし、黒井一楽(くろいいちらく)は、兄・横山喜代次も「香寶」を名乗っていた、と言っています。
黒井一楽が言うのですから、間違いないんでしょうね。
黒井一楽は、二代横山香寶・喜八の弟子ですから ☆
今回は、名工だと言われていた、初代横山香寶・喜代次のことを、お話いたします。
初代横山香寶は、横山喜代吉の長男として、元治元年(1864年)に虫明で生まれます。
初代横山香寶・喜代次(1864〜1928年)と、その弟である・二代横山香寶・喜八が、
明治16年(1883年)に、森香洲(もりこうしゅう)に弟子入りし、陶芸を始めています。
そして初代香寶は、森香洲が明治19年(1886年)に横浜の真葛窯に行ったときに同行しています。
森香洲の師・真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)の横浜真葛焼です。
森香洲が明治26年(1893年)に、横浜の真葛窯から倉敷の酒津窯に移った時も同行しています。
二代横山香寶が、常に虫明にいたのに対して、
初代香寶は、森香洲と横浜真葛焼、酒津焼へと行動を一にしています。
初代香寶は明治28年(1895年)、虫明陶器製造所で、職長・森香洲の下で働いていたが、
大正2年(1913年)に、虫明陶器製造所が廃窯したため、再び酒津窯に行っています。
そして、大正7年(1918年)に創立された、備前焼株式会社・虫明工場では、
森香洲の下で再び虫明焼製陶に従事します。
大正9年(1920年)には、備前焼株式会社・虫明工場を森香洲が辞職しました。
そこで、初代香寶も虫明工場を辞職し、備前片上に移り備前焼に専念します。
このことは当然ながら、初代横山香寶の作風(作品)は、
真葛香山(まくずこうざん)、森香洲の作品の影響を大きく受けています ☆
初代香寶作手鉢の写真が、桂又三郎著[備前虫明焼] 173ページ・第132図に載っています。
私・蓼純も、実物を見たことがあるか どうかは判りません・・・
と言うのも、この手鉢と同じ形のものは、森香洲も造っています。
私・蓼純も若いときに、写真と同じ形の手鉢を、見せて頂いた記憶はあります。
でも、それが森香洲作だったのか、初代香寶作だったのかは覚えていません。
写真の手鉢は、印が入っているのか、入っていないのかも 記されていません。
でも、これが、初代香寶の作風だと、私・蓼純も感じています。
[古虫明・現代虫明焼] には、横山香寶作品が、四点載っています。
しかし、初代・二代の記載は無く、いずれも横山香宝とだけ記されています。
[古虫明・現代虫明焼] 37ページ・鶴の絵耳付花入と、38ページ・虫明八景絵付花入。
この二点は、初代香寶作だと思います。
35ページ・流し釉花入も、二代香寶の作風ではないですね。
これも、初代香寶作でしょうか。
瀬戸内市邑久町公民館の太田コレクションに、横山香寶の菓子器が一点展示されています。
太田コレクションは、[邑久町史・文化財編] に全部写真が載っています。
176ページの31.落雁菓子器です。
ただし、初代香寶 二代香寶の別は記載されていません。
私・蓼純も、太田コレクションは何度も見ましたが、この菓子器は二代横山香寶作です。
したがって、邑久町公民館の太田コレクションには、初代横山香寶作品はありません。
先にもお話いたしましたように、初代香寶は、真葛香山、森香洲と一緒に仕事をしています。
当然、二人の師の影響は受けるでしょうね。
作風は勿論ですが、銘(印)の捺し方ひとつにしても、真葛香山、森香洲の影響を受けます。
真葛香山も、森香洲も、印(作銘)を捺すときは、必ず丁寧に鮮明に捺しています。
「そんなことは、ないわヨ。アタシのもっている、真葛の茶碗は、印を薄く捺しているわヨ」
「いや、いや、オレの菓子器の香洲印は、丁寧には捺してないぞ!」
「本に載っている写真の、むしあけ印と、真葛印だって・・・」
という方も、いらっしゃるとは思います。
が、 それには、その理由があるということです。
私の父は、(初代・二代)横山香寶のものも、たくさん集めていました。
二代横山香寶の仕事場には、たびたび、お邪魔していたようです。
「蓼純Collection」のページで、何点か紹介しようと思います。
とりあえずは、水指ですね。
すばらしい出来の水指です、写真をごゆるりと、ご覧になってください。
私・蓼純は、この水指が、初代横山香寶・喜代次の作品だと思っています。
作風もですが、「むしあけ」印と、「香寶」印を、丁寧に鮮明に捺しています。
また改めて、お話いたしますが、初代香寶が銘(印)を鮮明に捺すのに対して、
二代香寶は、銘(印)を非常に薄く捺しています。
というところで、次回は二代横山香寶について、お話しする予定です。
〔追記〕
真葛香山も、森香洲も、印(作銘)を捺すときは、必ず、丁寧に鮮明に捺しています。
と、お話いたしました。
池上千代鶴(いけがみちよづる)は、[虫明焼の記録]に
「香洲の印は高台内に正しく押して居る。恰も書家が揮豪の後、落款を厳重に滴めると同様である。」
と、表現しています。
また、虫明窯で真葛香山に師事した久本葛尾も、備前に行っても丁寧に鮮明な銘(印)を捺しています。
〔また追記〕
初代横山香寶の銘(印)は、「香寶」です。
それ以外に、「香浦」、「龍峰」、「香春」と称した、と言われていますが、
「香浦」、「龍峰」、「香春」 銘(印)の初代横山香寶作品は、私・蓼純は見たことがありません。
陶工(陶芸家・作家)も全国には多数いますので、
「香浦」、「龍峰」、「香春」銘(印)の焼きものもありますが、虫明焼とは言い難いものなので
別の陶工(陶芸家・作家)の作品だと思います。
〔またまた追記〕
「蓼純Collection」のページにUPしていた初代横山香寶の水指ですが、
すでに削除しましたので ここに再掲いたします。
胴中央部を六方に押さえて、瓢箪(ひょうたん)形の耳をつけています。
全体に鉄釉を掛けて、白濁釉を流し掛けしています。
「むしあけ」と「香寶」印を 鮮明に捺しています ☆
これは いい水指です。
(個人の感想です ☆)
〔第18回〕 2008.01.01
前回は、初代横山香寶・喜代次(よこやまこうほう・きよじ)のことを、お話しいたしました。
今回は二代横山香寶・喜八(よこやまこうほう・きはち・1869〜1942年)について、お話します。
二代横山香寶は、横山喜代吉の二男・喜八として、明治2年(1869年)に虫明で生まれます。
初代横山香寶・喜代次と、その弟である・二代横山香寶・喜八が、
明治16年(1883年)に、森香洲(もりこうしゅう)に弟子入りし、陶芸を始めています。
横山香寶の香の字は、森香洲の香の字をもらっています。
横山香寶の作品は、骨董屋さん(古美術店)にも ときどき出てきます。
初代と二代のものが、どちらも「香寶」 銘(印)なので、比較的香寶作品は多いようです。
私は品物を見ても あまり銘(印)は見ないので、初代と二代香寶の印が同じなのかは知りません。
あんまり銘(印)、銘(印)、銘(印)というのは、好きではありませんが・・・
香寶もですが、他の作家の銘(印)もデジカメで接写して、UPした方がいいのかなと思っています。
初代香寶が印を丁寧に鮮明に捺すのに対して、二代香寶の印は、非常に薄く捺しています。
これは、何によるのでしょうか。
自信の有り無しとか、性格とか、陶工(陶芸家・作家)の個性が印の捺し方にも出るのでしょうね。
初代香寶は、森香洲と行動を共にして、
横浜の真葛窯、倉敷の酒津窯に行ったという事を前回に、お話いたしました。
この間も、二代香寶は、虫明に住み虫明焼を守っています。
ただ、虫明・二代香寶の窯に火が入ることは、殆どなかったと思います。
昭和5年(1930年)に虫明の瀬溝に築窯し、翌年・昭和6年(1931年)に陶業を開始します。
そして、昭和8年(1933年) 黒井一楽(くろいいちらく)に、虫明焼の技術を伝えていきます。
二代香寶は、正統派というか、遊び心がないというか、真面目なものを造っていますね ☆
多少、面白味に欠けるところがあるかもしれません。
釉薬(ゆうやく)の研究も熱心であった、と伝えられています。
そう言われて見ると、いい釉薬を使っていますし、釉薬の掛け方も上手いです。
私・蓼純は、横山香寶作品は好きなんですが、一般的には やや人気薄のようです ☆
昭和12年(1937年)に老齢のため引退し、昭和17年(1942年)の11月に亡くなられています。
二代横山香寶の作品を、みてみましょうか。
実物は、瀬戸内市邑久町公民館の太田コレクションに、菓子器が一点展示されています。
初代、二代とは書かずに横山香寶作とだけ記されています。
これが、二代横山香寶作の菓子器です。
この菓子器は、口の淵を、輪花(りんか)にしています。
内側に月を白釉で、雁を鉄釉で6羽 描いています。
落雁の絵付けですね。
全体は、いわゆる虫明釉を掛けています。
瀬戸内市邑久町公民館の展示作品は、すべて[邑久町史・文化財編] に載っています。
[邑久町史・文化財編] 176ページの31.落雁菓子器 です。
「むしあけ」印のみで、「香寶」印は入っていないようですね。
前回くらいから、作品が掲載されているページを言うようにしています。
入手しにくい本が多いので、何ページと言っても と、思っていたのですが・・・
このホームページも、虫明焼に興味の無い人は見ていないわけですし、
虫明焼に興味のある人は、本を見る事が出来る環境にあると思っています。
インターネットの普及で、桂又三郎の[備前虫明焼] [増補・改定備前虫明焼]、
池上千代鶴 の[虫明焼の記録] も、県外の古本屋からも取り寄せができるようになりました。
それに、岡山県立図書館などでも、借りて読むことが出来ますので、
古い回のもの(Back number)も、暇なときに本のページを追加しておきます ☆
このホームページは、裳掛小学校(もかけしょうがっこう)の生徒さんにも、
地元・虫明の焼物を知ってもらいたい、と思って始めたわけですが・・・
どうしても、くどくなってしまいます。
「虫明焼の栞」の中の、「虫明焼について・蓼純の虫明焼半可通」だけは、
本当に虫明焼が好きな人だけのページにしていっています。
と、いうわけで二代香寶作品の写真です。
[増補・改定備前虫明焼]179ページ第231図 水仙絵茶碗と、第232図 牛絵茶碗です。
次・180ページ第233図 月秋草絵茶碗と、第234図 松の絵茶碗が載っています。
二代香寶の作品は、沢山あるわけですから、
もう少し、二代香寶らしい作品を載せて欲しかったですね ☆
しかも、現在の書籍とは違って、いづれも鮮明には写っていません。
次は、[古虫明・現代虫明焼]掲載の写真です。
36ページ水仙の絵茶碗 石井金陵の絵付です。
横山香宝とだけ、記載されていますが、これが二代香寶作ですね。
[古虫明・現代虫明焼]の写真は良いのですが、この本が一番入手しにくいかもしれません ☆
とりあえず、二代横山香寶のお話は、今回で終了いたします。
横山香寶については、また、改めてお話したいと思っていますが、
今回は、このあたりにしておきます。
「蓼純Collection」のページには、二代横山香寶の菓子鉢を載せておきます。
二代横山香寶の作風を、感じとってください。
次回は、岡本英山(おかもとえいざん)の予定です。
〔追記〕
自信の有り無しとか、性格とか、陶工(陶芸家・作家)の個性が印の捺し方にも出るのでしょうね。
と、お話いたしましたところ、
某虫明焼研究・愛陶家で虫明焼を趣味で造られている方から、
「印を捺すタイミングだ。土の柔らかい時と固い時では、同じ様に捺しても、印影に差が出る」
と、コメントをいただきました。
確かにそうですね。
二代横山香寶は、乾燥が進んだ所で、印を捺していたんでしょうね。
それも、陶工(陶芸家・作家)の個性だと思います ☆
コメントをいただき、ありがとうございました。
〔また追記〕
二代横山香寶が亡くなったのは、[備前虫明焼]178ページと、[虫明焼の記録]391ページには、
「昭和十四年歿、享年七十四歳」 と、記載されています。
しかし、このホームページでは、「昭和17年(1942年)の11月に亡くなられた」 と、お話いたしました。
これは、地元・虫明の某虫明焼研究・愛陶家から、旧邑久町役場で調査したら、
「二代横山香寶が亡くなったのは、昭和17年11月6日である」 との情報をいただいたからです。
昭和17年没というのは、[備前虫明焼]、[虫明焼の記録]に記されている
「享年七十四歳」 との整合性もあるため、
某虫明焼研究・愛陶家の情報に基づき、「昭和17年(1942年)11月没」を採用しています。
〔またまた追記〕
「蓼純Collection」のページには、二代横山香寶の菓子鉢を載せておきます。
二代横山香寶の作風を、感じとってください。
と、お話しましたが、「蓼純Collection」の写真は削除していますので、ここに再掲いたします。
二代香寶の菓子鉢 絵付けは窪田雄峰です。
よく出来ています。
虫明焼にはよくある形ですが、この手の菓子器は使いにくいです。
大手饅頭を入れても落ち着きません。
二代香寶の印は、非常に薄く捺しています。
と、お話いたしましたが、この菓子鉢も例外ではありません ☆
〔第19回〕 2008.04.13
前回まで初代横山香寶(よこやまこうほう)と、二代香寶について、お話いたしました。
今回は、岡本英山(おかもとえいざん・1881〜1962年)について、お話いたします。
岡本英山は、生家が日用品を焼く窯屋だったため、
明治31年(1898年)・16〜17歳で、陶工(陶芸家・作家)の道に入ります。
生家は、岡山県英田郡江見村(現在の岡山県美作市)です。
本名は、岡本運平です。
以前は、「不楽」 「榮山」 の銘(印)も使っていました。
明治40年(1907年)には、郷里を出て、
京都、山陰、萩、唐津、備前、倉敷、津山など多くの窯に従事しています。
以前お話いたしましたが、大正7年(1918年)に備前焼株式会社・虫明焼工場が設立されました。
このとき、岡本英山は備前焼株式会社・虫明焼工場に来て、
森香洲(もりこうしゅう)、初代横山香寶(よこやまこうほう)と三人で製陶に従事します。
この会社時代に使われた銘(印)は、[備前虫明焼]159ページ・第120図に掲載されています。
私も、会社時代の銘(印)の入った備前焼風の建水をもっていますので、改めてUPします。
しかし、備前焼株式会社・虫明焼工場が、大正13年(1924年)に休窯したため、
岡本英山は、津山の浮田窯に復帰します。
英山は、廃窯となっていた虫明焼の復興を依頼され、昭和7年(1932年)4月に再び来窯します。
岡本英山は、昭和37年(1962年)に逝去するまで、虫明立場(たてば)で虫明焼に専念しました。
虫明焼を復興させ、虫明焼の名声を高めるために、大きく貢献したわけです。
しかし、岡本英山の後継者がなく、立場窯が廃絶しました。
もう十年以上前になりますが、「虫明焼陶工岡本英山生誕115年記念秀作展」という、
長い名前の展覧会が、邑久町中央公民館で開かれました。
このときは、数十点の岡本英山作品が展示されました。
多くの窯場を経験しているだけあって、いろいろな作風のものを造っています。
岡本英山は、轆轤(ろくろ)が非常にうまい陶工(陶芸家・作家)だ、 といわれていました。
岡本英山の作品は、骨董屋さん(古美術店)にも、ときどき出てきます。
手付きの菓子器などに、いいものがありますね ☆
虫明焼の収集家には、比較的人気のある陶工(陶芸家・作家)です。
ほぼ同じ時代の横山香寶よりは、人気があるようです。
岡本英山の作品は、瀬戸内市邑久町公民館に、数点展示されています。
太田コレクションは、すべて[邑久町史・文化財編] に載っています。
えーっと・・・ 岡本英山作品は七点あるようですね ☆
太田コレクションに、横山香寶作品は一点しかありませんが、岡本英山作品は七点あります。
太田巌も、横山香寶よりは岡本英山作品のほうが好きだったのでしょうか(?)
[邑久町史・文化財編] 169ページの7.若松絵茶碗、8.桜絵茶碗、9.椿絵茶碗、10.曙茶碗、
11.黒茶碗、180ページの40.手桶水指、そして182ページ48.一合徳利の七点ですね。
邑久町公民館の虫明焼展示室で、太田コレクションを常設展示しています。
実物を見るのが一番です。邑久町公民館に行ってみてください ☆
「ホームページ・虫明焼の栞を見た!」
と言ったら、無料で入場できます。
なんにも言わなくても、無料なのですが・・・ ☆
岡本英山の抹茶碗は、森香洲、横山香寶などと比べると、やや大振りです。
岡本英山は、虫明焼の繊細さに、野趣味を加えたといわれています。
実物を見られるところは、ほかに 岡山県立美術館(県美)があります。
県美には、岡本英山作の五節句抹茶碗(ごせっくちゃわん)があります。
館蔵品ですが、常には展示していません。
五節句抹茶碗というのは、一月、三月、五月、七月、それに九月、
それぞれの節句にちなんだ絵付けをした抹茶碗です。
このHP「今月の抹茶碗」で、紹介している十二ヶ月抹茶碗の簡易版のような感じです。
どちらも、季節の変化・区切りを楽しむということに変わりはありません。
県美の、五節句抹茶碗は、いいですよ。
岡山の骨董屋さん(古美術店)にも、
横山香寶、岡本英山あたりからは、時々でますので、現物を見る機会も有ると思います。
私の父は、岡本英山の仕事場にも、たびたびお邪魔していました。
桂又三郎著・[備前虫明焼]176ページ掲載の、岡本英山の写真は、私の父が写したものです。
私も小学生の頃、父親と何回か行きましたが、よく煎餅(せんべい)を出してくれていました。
私の父は、私を虫明焼の陶工(陶芸家・作家)にしたかったのかもしれません。
しかし、私・蓼純の収集品は、岡本英山作品は少ないです ☆
私の父は、「英山のものは、くすり(釉薬)がテカテカしすぎる」 と言っていました。
窯から出たばかりで、釉薬(ゆうやく)に落ち着きが、なかったんでしょうね。
岡本英山作品は、いつでも手に入るという気持ちもあったのかもしれません。
それに、私の父は、森香洲作品が好きでしたからね ☆
小学生の頃、煎餅をもらったから言う訳ではありませんが、岡本英山は名工です。
しかし、森香洲作品と、岡本英山作品を比較すれば、歴然とした差が当然あります。
岡山市内の有名な骨董屋さん(古美術店)でも、
「香洲より、英山の方がいい」 なんてことを、言われる店があります。
骨董屋さん(古美術店)でも、森香洲の作品は見る機会が非常に少ないと言うことです。
「蓼純Collection」のページには、何を載せましょうか。
やはり、水指がいいですよね。
この水指には、漢字の「虫明」印が入っています。
虫明の「虫」の字体が、中央の「央」に似ているため、「央明」印(おうめいいん)と言います。
岡本英山作品には、「央明」印を捺したものが時々みられます。
「央明」印は、[備前虫明焼]187ページ、[増補・改定備前虫明焼]312ページに載っています。
「央明」印、参考に覚えていてください ☆
次回も、岡本英山について、お話してみたいと思います。
岡山県立美術館(県美)には、岡本英山作の五節句抹茶碗(ごせっくちゃわん)があります。
と、お話いたしましたが、県美は岡本英山作の十二ヶ月抹茶碗も、所蔵されているようです。
県美のホームページから、五節句抹茶碗と、十二ヶ月抹茶碗の写真を見ることが出来ます。
〔また追記〕
「蓼純Collection」のページに載せていた水指です。
上で お話した、「央明」印(おうめいいん)印を捺しています。
銘(印)は漢字・「虫明」印だけで、「英山」印は捺していません。
父は、「英山のものは、くすり(釉薬)がテカテカしすぎる」 と言っていましたが、
この水指は、薄い白釉を流し掛けしているため、釉薬が比較的落ち着いています。
〔またまた追記〕
上で 銘の「英山」は、故郷の英田の山から付けたんでしょうね ☆
以前は、「不楽」 「榮山」 の銘(印)も使っていました。
と、お話いたしました。
英山は無銘のものもあるのですが、銘(印)の入ったものでは「英山」銘(印)が圧倒的に多いです。
私・蓼純個人の感覚で言うと、
「英山」 銘(印)が90%、「榮山」 銘(印)が9% そして、「不楽」 銘(印)が1%と言う感じです。
「不楽」 銘(印)を使っている作品は極めて少ないようです。
したがって私・蓼純も、「不楽」 銘(印)を使っている作品はもっていません ☆
「不楽」 銘(印)の手鉢(てばち・菓子器)を、一度見たことがあります。
「不楽」 印と、漢字の 「虫明」 印を捺していました。
この抹茶碗は、英山作 松絵抹茶碗です。
銘(印)は、 「榮山」 印と 「央明」 印を捺しています。
〔第20回〕 2008.07.12
前回に続いて、今回も岡本英山(おかもとえいざん)について、お話いたします。
今回は、岡本英山作品が掲載されている書籍を、紹介しておきます。
[備前虫明焼] 177ページの第136図に、刷毛目抹茶碗が載っています。
[増補・改定備前虫明焼] を見てみますと、
157ページの第198図、第199図に茶入れが載っていますね。
158ページの第200図に水指、159ページ第201図に観音像と続いて、
175ページの第227図の撫四方(なでしほう)徳利まで約40点掲載されています。
正宗敦夫(まさむねあつお)が、歌を書いた抹茶碗、水指も載っています。
正宗敦夫は、「これほど轆轤(ろくろ)の上手い陶工はいない」
と、岡本英山のことを絶賛したそうです。
「岡本英山は、非常に轆轤が達者だった」 と、黒井一楽も言っています。
[備前虫明焼]・[増補・改定備前虫明焼] は記事は良いのですが、写真はダメですね。
古い本でもあり、カラー写真は殆ど使っていません。
モノクロ写真も、いまひとつハッキリとしていません。
[古虫明・現代虫明焼] を、開いてみます。
39ページの菊の絵抹茶碗から41ページの黒釉抹茶碗まで、抹茶碗が6点載っています。
43ページには、煎茶器の揃いが2点載っています。
1ページ戻って、42ページに、半泥子絵付けの菓子器が載っています。
川喜多半泥子(かわきたはんでいし・1878〜1963年)です。
これは、川喜多半泥子が岡本英山の窯に来遊した時のものですね。
昭和15年(1940年)岡本英山の窯に、川喜多半泥子、金重陶陽(かなしげとうよう・1896〜1967年)
それに、金重素山(かなしげそざん・1909〜1995年)が、来遊し20〜30点作っています。
この時は、[備前虫明焼] などの著者・桂又三郎(かつらまたさぶろう)も同行しています。
その後も、川喜多半泥子は、虫明に金重陶陽などと来て虫明で制作しています。
私・蓼純も、この川喜多半泥子の菓子器に、よく似た絵付の大鉢をもっています。
もちろん、川喜多半泥子と断定はできません。
それに、川喜多半泥子作のものが、私のところまで流れてくるハズがないですよね ☆
川喜多半泥子ファンの方に、みていただいきたい気持ちもあるのですが・・・
でも、今まで、このホームページでは、絶対に間違いの無いもの以外は写真を掲載していません。
いまさら、その方針を崩すのもどうかと思い、写真のUPは遠慮しておきます。
岡本英山作品は、武本梅園(たけもとばいえん)が長い間、絵を描いています。
東原方僊(ひがしはらほうせん・1886〜1972年)、中谷金鵄(なかたにきんし)、
高橋秋華(たかはししゅうか・1877〜1952年)なども絵付けをしています。
ときどき、女の子が描いたような、丁寧すぎる絵があります。
これは、女の子が描いています ☆
岡本英山の娘が、絵付けをしたものです。
私の母も、「さっちゃん(岡本英山の娘)は、いつ行っても抹茶碗に絵を描いていた」
と、言っていました。
それから、轆轤(ろくろ)のことですが、岡本英山は轆轤が左回転しているものがほとんどです。
これは、高台などを見て頂ければ、判ると思います。
岡本英山の頃は、電動轆轤を使っていないので、轆轤を手 または足で回していました。
岡本英山は、主に蹴轆轤(けろくろ)を使っていました。
轆轤の下の方についた棒(板)を右足で蹴るために、轆轤は左回転します。
森香洲(もりこうしゅう)とか、横山香寶(よこやまこうほう)は、手轆轤を使っていました。
手轆轤は、轆轤の上の方に付いた回し棒を、手で引いて回転させます。
従って、右手で引いて回転させれば、轆轤の回転は右回りとなります。
轆轤は蹴るにしても、手で回すにしても、陶工(陶芸家・作家)が回さなきゃーダメですよね ☆
電動轆轤が出来たために、轆轤のヘタ(?)な陶工(陶芸家・作家)はいなくなりました。
陶芸教室でも、数回もすれば、素人が結構キレイな轆轤を挽いています。
プロと素人の、轆轤の差が微妙です。
しかし、キレイに挽いているのに魅力の無い形、魅力の無い高台になっています。
お面などの、手彫りと機械彫りとの違い、みたいなものなんでしょうか。
例えが良くないか(?)
電子レンジでも、・・・
あっ、電子レンジのターンテーブルは、全部電気で回りますよね。手回しは無いです ☆
まあ、いいや。
何を話していたのか判らなくなりましたので、今回は終わることにいたします。
「蓼純Collection」 のページには、岡本英山作の抹茶碗二点を載せます。
一点は、なまこ釉の抹茶碗です。
これは、父がもっていたものですが、私が小学生の頃から気に入っていた抹茶碗です。
もう一点は、岡本英山の娘さんが、絵付けをしたものです。
女の子らしい絵付けになっています。
こちらは、私が手に入れたものです。
ええ、どちらも少し大振りです。大振りな抹茶碗なのも、岡本英山の特徴です。
どうぞ、「蓼純Collection」 のページを、ご覧になってください。
これから暑い日が続きます。お身体を、大切になさってください ☆
次回は、黒井一楽(くろいいちらく)について、お話しましょうか(?)
〔追記〕
あっ、電子レンジのターンテーブルは、全部電気で回りますよね ☆
と、お話いたしましたが、いま読むと意味が分からない方が多いですよね。
昔の電子レンジは、食器を置く台が轆轤(ろくろ)みたいに回転して、調理する品にムラなく、
電磁波を照射していました。この食器を置く・まわる台を、ターンテーブルといいます。
今は電磁波を乱反射させて、加熱ムラが無いようにしますので、食器を置く台は回転しません。
当時も今と同じ形式のものは有ったのですが、まだターンテーブルの方が、多かったと思います。
〔また追記〕
「蓼純Collection」 のページには、岡本英山作の抹茶碗二点を載せます。
一点は、なまこ釉の抹茶碗です。
と書いていますが、すでに写真は削除したので、二点の内 なまこ釉の抹茶碗をここに載せます。
〈 虫明海鼠釉抹茶碗 岡本英山 造 〉
口縁(口辺)は、山道にしています。
大振りですが、手(掌)に沿いやすい良い抹茶碗です。
〔第21回〕 2008.08.27
今回は、黒井一楽(くろいいちらく・1914〜1996)について、お話いたします。
黒井一楽は、虫明の等覚寺真然老師の三男で、名前は黒井一男です。
昭和8年(1933年)に、二代横山香寶(よこやまこうほう)に師事して虫明焼を始めました。
昭和9年8月(1934年)には、虫明上町に開窯しました。
ここで、二代横山香寶と陶業生活に入ります。
この窯では、久本謙一(ひさもとけんいち)も製陶に従事しています。
久本謙一は、将来を期待されていたようですが、若くして戦争でなくなられています。
久本謙一作らしいものは有りますが、作銘の入ったものは残っていないと思います。
昭和13年(1938年)に、黒井一楽は大阪三越で初個展を開催しました。
この窯も、昭和24年(1949年)には、廃窯します。
しかし、黒井一楽は昭和26年3月(1951年)に、株式会社にした虫明窯で再出発します。
黒井一楽は、主に茶陶を焼いています。
昭和51年には黒井一楽が、脇窯(曙窯)を築窯しました。
この曙窯に、京都から高橋一甫(たかはしいちほ・いっぽ)という陶工(陶芸家・作家)が来ます。
当時28歳の、若き陶工(陶芸家・作家)が曙窯で制作しています。
私・蓼純も、「むしあけ」印と「一甫」の刻銘のある、抹茶碗と花入れなどを数点もっています。
漢字「虫明」印と「一甫」の刻銘の抹茶碗もあります。
ただ、抹茶碗も花入れも平凡な作です。
高橋一甫は名工であった とは言いにくいです ☆
[増補・改定備前虫明焼]の335ページ第137図に、「一甫」の銘(サイン)が載っています。
黒井一楽は、昭和55年(1980年)に、県指定重文保持者になりました。
「県指定重要無形文化財虫明焼製作技術の保持者に認定する」
昭和60年(1985年)には、労働大臣卓越技能者表彰されています。
昭和63年(1988年)には、黒井一楽の功績で、虫明焼が岡山県伝統的工芸品に指定されます。
黒井一楽は、美術展等において数々の賞を受賞して、現代虫明焼の名声を高めました。
しかし、平成8年2月(1996年)に、黒井一楽は逝去しました。
黒井一楽作品の写真掲載は、[備前虫明焼]178ページの第138図に抹茶碗。
[増補・改定備前虫明焼]の181ページ第235図と、第236図に抹茶碗が載っています。
[備前虫明焼]と、[増補・改定備前虫明焼]第236図の抹茶碗は同じものですね。
黒井一楽作品は、たくさん残っています。
同じ抹茶碗を載せることも無いのでは、と思いますが・・・
モノクロ写真で判りにくいですが、この抹茶碗は辰砂(しんしゃ)でしょうか(?)
黒井一楽作品には、辰砂釉を掛けたものに、良いものがあります。
いつだったか、邑久町公民館で黒井一楽展をした時に、辰砂釉のものを何点か出していました。
辰砂は、いわゆる虫明釉ではないですが、いい感じにあがっていましたね。
辰砂というのは、銅を含んだ釉薬(ゆうやく)を還元炎焼成すると、深く鮮明な紅色に発色します。
酸化炎焼成になった場合は当然、緑色に発色します。
辰砂釉の紅色は血の赤だ と、言われますが、一楽は虫明釉と辰砂釉を掛けていますので、
血の赤 というほどには赤くは上がりません。
黒井一楽の辰砂釉作品は、紅色に発色したものだけではなく、紅色と緑色が混在したもの、
虫明釉のなかに少し辰砂が出ているものがあり、それはそれで不作為の美しさを生んでいます。
[古虫明・現代虫明焼]44ページには、抹茶碗が1点載っています。
次の写真に移ります。
池上千代鶴の [虫明焼の記録]です。
418ページには、大原桂南(おおはらけいなん・1880〜1961年)書の皿が載っていますね。
黒井一楽は、中西素秋(なかにしそしゅう)の絵付けが多いのですが、
東原方僊(ひがしはらほうせん・1886〜1972年)、松坂帰庵(まつさかきあん・1891〜1959年)、
正宗得三郎(まさむねとくさぶろう・1883〜1962年)なども、黒井一楽窯で絵付けをしています。
中国銀行元頭取の守分十(もりわけひさし・1890〜1977年)も、絵付けをしています。
「一」 とサイン (「十」ではありません) しているものが、そうです。
一時期、骨董屋さん(古美術店)に、たくさん出ていました。
守分十が亡くなられてから、付き合いでもっていた人が手放したんでしょうね ☆
私・蓼純も、守分十が絵付けをした 水指、抹茶碗などを数点もっています。
守分十は、ほとんどゴス(コバルト・青色)で絵付けをしています。
黒井一楽以降の作品は、邑久町公民館の太田コレクションにはありません。
でも、骨董屋さん(古美術店)には、よく出ますね。
もちろん、黒井一楽の御子息・黒井千左(くろいせんさ)の窯元に行けば
見ることはできるのでしょうが・・・
「蓼純Collection」のページに、写真を掲載しておきます。
水指と、抹茶碗をUPしましょうか。
私・蓼純も、黒井一楽作品は色々と もっていますので・・・
また、機会がありましたら、ほかの作品も お見せいたします。
ところで、黒井一楽が、平成3年2月に虫明焼について講演をされています。
その講演内容が、[岡山の自然と文化11] に掲載されています。
陶芸の道に入ったきっかけのようなことも、話されています。
一部抜粋して紹介いたします。
「(二代横山香寶が) 昭和5年に瀬溝というところへ窯を移して焼き始めまして瀬溝で初窯を
昭和5年に焼いております。そして私は昭和7年ごろからそこへたびたび見学に行くようになりました。
その時分にはロクロが空いておるもんですからロクロを使ってロクロで物を作ってみたりしておりました。
そういうことが次第に多くなって、窯焚きにも手伝ってみたりするようになりまして、非常にロクロに興味を
持って最後には多少似通った物がいくらか出来面白いものですから、次第とロクロに取り付かれて熱が
入って、結局は昭和8年の2月頃でしたか弟子入りをしました。それから昭和9年の8月に現在の虫明の
上町というところに窯を築きまして虫明焼を始めまして初窯を焼いたのです。
それ以来今日まで約55年以上の長いことになりますが、どうにかこうにか今日の月日を迎えたのです。」
と、書かれています。
なお作銘は、「むしあけ」印と「一楽」印の二印を捺したものと、
「むしあけ」印と「一楽」のサイン(刻銘)のものがあります。
両方使っていたのですが、昭和40年代からは、「むしあけ」印と「一楽」の刻銘にしたようです。
いままでの虫明焼の陶工(陶芸家・作家)は、刻銘のものはありません。
作銘は、全部「印」を捺していました。
ええーっと、全部でしたかね・・・
全部ですよね ☆
磁器のように釉(ゴス)で作銘を書いたもの意外は、印銘です。
黒井一楽以降は、「むしあけ」印と、刻銘のものが増えてきています。
現在活躍されている 黒井千左(くろいせんさ)も、「むしあけ」印と、「千左」の刻銘です。
黒井慶雲(くろいけいうん)も、「むしあけ」印と、「慶」などの刻銘にしています。
森香泉(もりこうせん)は、「むしあけ」印と、「香泉」の二印のものも多いのですが、
通常は、「むしあけ」印と「香泉」の刻銘です。
松本学(まつもとまなぶ)の場合は刻銘ではなく、「むしあけ」印と「学」の二印にしています。
松本学作品で刻銘のものは ないと思います。
虫明焼の創始期から、黒井一楽まで、いろいろなお話をしてきました。
いかがだったでしょうか ☆
この「虫明焼について・蓼純の虫明焼半可通」の内容は、「虫明焼の年表」に落としています。
歴史的なことは、「虫明焼の年表」を見ていただくと判りやすいのでは と、思います。
今回は このあたりで終わります。
次回は、真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)の虫明焼作品について、再びお話する予定です。
〔追記〕
黒井一楽作品は、邑久町公民館の太田コレクションにはありません。 と、お話いたしました。
しかし、同じ敷地内にある邑久郷土資料館3階の郷土資料室に展示されていました。
水指、抹茶碗など10点位展示されています。
[備前虫明焼]と、[増補・改定備前虫明焼]に2作品しか写真が載っていないと言いましたが、
[岡山の自然と文化11]には、モノクロ写真ですが20数点掲載されています ☆
〔また追記〕
いままで(黒井一楽以前)の虫明焼の陶工(陶芸家・作家)は、刻銘のものはありません。
と、お話いたしましたが、
山根四山の作品は、刻銘だったようです。[備前虫明焼] 190ページ、
[虫明焼の記録] 56、57ページに、刻銘の拓本が載っています。
また、岡本英山が、高さ45cm位の、鯉をかたどった大きな花入れを造っています。
この作品も、「英山」印ではなく、「英山作」の刻銘です。
作品の大きさと、銘(印)のバランスを考えたのだと思います。
「いままでの虫明焼の陶工(陶芸家・作家)は、茶陶には刻銘のものはありません。」
と、「茶陶には」 を入れた方が良いですね ☆
〔またまた追記〕
黒井一楽の窯で、中国銀行元頭取の守分十も、絵付けをしています。 と、お話いたしましたが、
守分十は、この窯の支援者でもあり黒井一楽作陶展が開催された時も、案内状に辞を載せています。
参考に記載します。
「名陶虫明焼の窯元黒井一楽先生が、このたび天満屋で個展を開催されます、雅味豊かな虫明焼は、
茶器花器など、それぞれに広く愛好され、珍重されていますが、二年ぶりに展観される今回の作品は、
虫明の特色と伝統に益々磨きのかかった力作揃いで,日頃の成果が楽しまれます、歳末御繁多の
折柄とは存じますが、何卒御繰合せ御清鑑頂ければ幸いです。」
昭和四十一年十二月 守分 十
天満屋(てんまや)というのは、岡山県では知らない人がいない 老舗の地方百貨店です ☆
〔まだ追記〕
黒井一楽が昭和58年(1983年)に、大丸心斎橋店で「古稀記念 虫明焼黒井一楽 七十碗展」
を開催しました。
古稀(70歳)に因んで、70碗を 展示販売しました。
この図録が出ています。
[むしあけ茶碗 黒井一楽]です。
70碗見ると、黒井一楽の作風が判ります。
また、抹茶碗の販売価格を記した紙が入っていました。
昭和58年(1983年)当時に黒井一楽が、そして虫明焼が高く評価されていた証にもなります。
機会があれば、ご覧になってください。
〔第22回〕 2008.09.27
〔第1回〕から〔第21回〕まで、虫明焼の創始期から黒井一楽までのことをお話いたしました。
今回はリクエストがありましたので、
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)の虫明滞在中の作品について、再び お話いたします。
明治元年(1868年) 真葛香山(宮川香山)は、
岡山藩の筆頭家老である伊木三猿斎(いぎさんえんさい=伊木忠澄)の招きで、
虫明に滞在し、明治3年(1870年)に京都に帰るまで、虫明焼の制作を行いました。
そして、虫明・森角太郎窯の陶工(陶芸家・作家)に陶技を教えています。
明治4年(1871年)からは、横浜で外国人相手の輸出用陶磁器を造っています。
虫明には、2年余り滞在していたわけです。
それにしては、現存する虫明焼・真葛香山作品が少なすぎます。
もちろん、大量生産、大量販売を行なおうとしたものではありませんが・・・
今年が2008年ですから、真葛香山が虫明で焼いた作品も、140年くらい経ったわけです。
140年の間には戦争、地震、火事とか、いろいろな事件があり、多くの作品が壊れたのでしょうか。
ニセ真葛香山作品は、骨董屋さん(古美術店)にもよく出ます。
でも、真正な虫明焼・真葛香山作品は、なかなか公開されません。
ただ、真葛香山を虫明に呼んだのは、伊木三猿斎です。 と、いうことは、
作品は一般の市場で売られたのではなく、岡山藩の関係者に収まったと考えられます。
そうだすると、希望的観測ですが、あと何年後かに、岡山藩の関係者だった家から、
今までに見たことのない虫明焼・真葛香山作品が、公開されるかもしれません ☆
〔第6回〕でもお話いたしましたように、虫明焼・真葛香山作品と言われているものは、
ほとんど全部が贋作です。
書籍に掲載されていても、美術館に展示されていても、贋作は贋作であると言うことです。
本物の虫明焼・真葛香山作品を、紹介いたします。
桂又三郎(かつらまたさぶろう)著の[備前虫明焼]を見られる環境にある方は、
101ページを開いてください、第50図です。
[備前虫明焼]は、写真が悪いのですが、なぜかこの写真はハッキリ写っていますね ☆
[増補・改定備前虫明焼]を開ける方は、63ページの第44図を見てください。
東京国立博物館(東博)蔵、真葛香山作・瓢箪形の茶入れが載っています。
この茶入れに捺されている 「むしあけ」印だけが、真葛香山が虫明で使用したものである。
と、私・蓼純は断定いたします。
それから、
[備前虫明焼]を見られている方は、100ページの第49図を見てください。
[増補・改定備前虫明焼]を見られている方は、66ページ第47図を見てください。
少林寺蔵の真葛香山作の、虫明焼水指が載っています。
この水指は、私・蓼純も実物を見せていただいたことがあります。
今回は載せていませんが、〔第6回〕で水指の写真と、「むしあけ」印の写真をUPしました。
少林寺蔵の水指と、東博の茶入れの「むしあけ」印は同じです。
「蓼純Collection」のページに、真葛香山の虫明滞在中の作品をUPしていきます。
最初は、手付き菓子器(手鉢)です。
瓢箪(ひょうたん)形に作って、中央に持ち手を付けています。
白濁釉と鉄釉を掛け分けて、全体に薄い白釉を流しています。
この手鉢の印も、東博蔵の茶入れと、同じ「むしあけ」印です。
なお、この手鉢は[備前虫明焼]などの著者・桂又三郎の箱書きがあります。
真正な虫明焼・真葛香山作品の個性を、そして雰囲気を感じ取ってください。
「蓼純Collection」のページは上書きしていきまし、
このページも、前回以前 (Back number) になると、写真は削除しますので、
どうも良く判らないという方は、画像を保存してください。
記録媒体(メディア)も、大変安くなりました。
○年前に「蓼純Collection」を見た時は判らなかったけれど、
真葛香山の虫明焼作品は確かに素晴らしい、といつか感じていただけると思います。
真葛香山がいたから、虫明焼があります。
虫明焼があったから、世界の横浜・真葛焼があります。
と、言うことで、今回は、これで終わります。
真正な真葛香山・虫明焼作品は、他では見ることができません。
次回は、虫明焼・真葛香山作抹茶碗を、お見せしたいと思います。
更新は、10月25日(土)の予定です。
乞う!! ご期待!!
虫明焼研究・愛陶家からのコメントを、お待ちしています。
「蓼純Collection」のページに、手付き菓子器(手鉢)の写真を載せていたのですが、
すでに削除していますので、ここに再び写真を載せました。
なお、各回できるだけ 写真を追記しています。
したがって、この手鉢も 〔第5回〕 〔まだまだ追記〕 の頁にも写真を追加いたしました。
ここでは 〔第5回〕 〔まだまだ追記〕 とは、別の角度から写真を撮ってみました。
瓢箪形に作った 手鉢です。
白濁釉と 鉄釉の掛分けです。
〔第23回〕 2008.10.25
前・〔第22回〕で、虫明焼・真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)作の、
手付き菓子器(手鉢)をUPいたしました。
真正な虫明焼・真葛香山作品に、心ときめいて頂けましたでしょうか ☆
真葛香山以外の陶工(陶芸家・作家)が作ったものに、「むしあけ(虫明)」、「真葛」印を捺しても
真葛香山作品には、ならない。
この、当然過ぎるくらい当然のことを、認識していただけたのでは、と思っています。
真正な虫明焼・真葛香山作品は、あまりにも少なすぎます。
そのために、A贋作と、B贋作を比較して、Aが贋作なのか、Bが贋作なのかと混乱していた。
ニセC品と、ニセD品とを比べて、どちらが本物なのかと困惑されていたのだと思います。
今回は、「蓼純Collection」のページに、虫明焼・真葛香山作の抹茶碗の写真をUPしました。
轆轤(ろくろ)で挽いた後に手(掌)でおさえて、四方にしています。
はい、撫四方(なでしほう)ですね ☆
鹿と紅葉の絵を、鉄釉で描いています。
あっ、今の季節にちょうどいいです ☆
この抹茶碗は、真葛香山自身の絵付けでしょうね。
桂又三郎(かつらまたさぶろう)が、[備前虫明焼]に
「真葛宮川香山が間口窯で焼いた作品は、主として御本写しに鉄釉で絵付けしたものであるが、
しかし磁器の染付や赤絵金襴手なども焼いている。絵付けも、御本写しはほとんど真葛自身が
筆をとっているが、染付ものは多く菊渓幽人という南画家が描いている。」
と、記しています。
この抹茶碗の「むしあけ」印は、東京国立博物館蔵の茶入れと、同じ「むしあけ」印です。
しかし、残念ながら、この抹茶碗は割れを漆(うるし)で金直ししています。
割れた抹茶碗で思い出しましたが、
[備前虫明焼]、96ページの第45図を見てください。
真葛香山と森香洲(もりこうしゅう)の、三月の桜絵抹茶碗が載っています。
はい、[備前虫明焼]の写真は悪いです ☆
でも、真葛香山作は真葛香山作であるし、
森香洲作は森香洲作であることが、判っていただけると思います。
真葛香山の最初の弟子であり、最も指導を受けた森香洲が真葛の抹茶碗に似せて作っても、
陶工(陶芸家・作家)の個性が出るということです。
桂又三郎が、[岡山の焼物]に
「真葛は天才肌の陶工で虫明窯の作品、ことに茶碗などの高台は実によく切れているし、
また味合も深い。」
と、書いています。
「蓼純Collection」にUPした虫明焼・真葛香山作抹茶碗の味合の深さを、楽しんでください。
真葛香山の個性を感じてください。
どうも良く判らないという方は、画像を保存してください。
○年前に「蓼純Collection」を見た時は判らなかったけれど、
真葛香山の虫明焼作品は確かに素晴らしい、といつか感じていただけると思います。
と、前回にお話しいたしました。
「蓼純Collection」のページは上書きしていますので、過去の写真が見られなくなります。
今回も、どうも良く判らないという方は、画像を保存してください ☆
実物を見ていただける機会があればいいのですが・・・
虫明焼があったから、世界の横浜・真葛焼があります。
と言うことで、今回は、これで終わります。
真正な真葛香山・虫明焼作品は、他ではまず見ることができません。
次は、虫明焼・真葛香山作 釣瓶水指を、お見せしたいと思います。
次回更新は、11月15日(土)の予定です。
乞う!! ご期待!!
虫明焼研究・愛陶家からのコメントを、お待ちしています。
〔追記〕
鹿に楓文抹茶碗 真葛香山 作は、「蓼純Collection」のページに、違う角度から撮った写真を
数枚載せていたのですが、すでに削除したので、今回二枚のみですが再び写真を載せました。
〔第24回〕 2008.11.15
前回、虫明焼・真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)作の、鹿の絵抹茶碗を紹介いたしました。
真正な虫明焼・真葛香山抹茶碗は、いかがだったでしょうか。
なるほど、これが、真葛香山の虫明焼作品なんだ、と感じていただけましたでしょうか。
はい、判らないという方は、画像を保存してください。
○年後に判っていただけることを気体しています。
気体じゃあない、期待しています ☆
今回は、「蓼純Collection」の頁に、虫明焼・真葛香山作釣瓶(つるべ)形水指をUPしました。
前々回の手付き菓子器(手鉢)と、前回の鹿の絵抹茶碗は、私の父がもっていたものです。
今回の釣瓶形水指は、私・蓼純が岡山市内の骨董屋さん(古美術店)から買ったものです。
以前、「蓼純Collection」のページでも、お話したのですが・・・
私・蓼純が骨董屋さん(古美術店)に入っていくと、
店主が 「真葛の水指が入っていますよ」
私は出不精のため、その店にも、年に2、3度しか行きません。
それでも、虫明焼が好きな男だと、憶えてくださっています。
何度も言いますが、骨董屋さん(古美術店)に出る真葛香山作品はニセモノばっかりです。
また、また、また、真葛香山の贋作かと苦笑いしながら、椅子に座りました。
店主が箱から出してくれて、包んでいた布を開きかけた時、
「うわー!! いいですねー」
と、いつもは冷静な私が興奮してしまいました。
骨董屋さん(古美術店)に、
「まあ、ゆっくり見てください」
と、たしなめられました。
布を半分取った状態で、真葛香山作だと判りました。
このときも、私は焼きものに、印なんか必要ないと感じたのですが・・・
しかし、見せていただくと、真葛香山が虫明で使った、「むしあけ」印が捺されていました。
そうです、東京国立博物館蔵の茶入れと、同じ「むしあけ」印です。
骨董屋さん(古美術店)から、出所というか、以前に持っていらっしゃった方も聞いています。
お話は出来ませんが、前に持っていた方は、なるほどと思える方でした。
この水指は、釣瓶形にして、白釉と鉄釉を掛け分けています。
全体に薄い白釉を流し掛けしています。
真葛香山の個性を感じてください。
真葛香山の虫明焼作品を楽しんでください。
今回も、どうも良く判らないという方は、画像を保存してくださいね ☆
Back numberでは、画像は省略(削除)します。
手にとった感じというのは、写真ではお伝えできません。
それに、釉薬も写真で見るのと、実際に見るのとでは、感じが違ってきます。
いつか、実物を見ていただけることが、あればいいのですが・・・
真葛香山がいたから、現在の虫明焼があります。
虫明焼があったから、世界の横浜・真葛焼があります。
きょうは暖かい一日でしたが、寒暖の差が激しいので、風邪をひかないようにして下さい ☆
次は12月13日(土)に、虫明焼・真葛香山作水指を、もう一点、お見せしたいと思います。
真正な真葛香山・虫明焼作品を掲載できるのは、このホームページだけです。
〔追記〕
「蓼純Collection」の頁に、虫明焼・真葛香山作釣瓶(つるべ)形水指をUPしていたのですが、
既に削除していますので、ここに再び掲載いたします。
なお、各回できるだけ 写真を追記していますので、この手鉢も
〔第8回〕 〔またまた追記〕 と、〔第13回〕 〔また追記〕 のページにも写真があります。
ここでは、別の角度から撮った写真を載せました。
最上級の水指です。
桂又三郎の箱書きと、以前の持ち主のメモ書きがあります ☆
「蓼純Collection」のページに書いたことがあると思いますが、包んでいた布を半分取った状態で
すぐに真葛香山の虫明焼作品と判りました。
手に触れなくても、もちろん銘(印)を見てなくても 良さは伝わってきます。
〔第17回〕 〔またまた追記〕 で初代横山香寶の水指を、
「日本の水指 十選」 に必ず選ばれるであろう品です。
と、お話いたしましたが、私は この真葛の水指も 「日本の水指 十選」 に選ばれると思っています。
(井の中の蛙 大海を知らず でした ☆)
〔第25回〕 2008.12.14
前回は、虫明焼・真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)作、釣瓶(つるべ)形水指を掲載しました。
ご覧になっていただけましたか ☆
自慢するわけではないですが、良い水指だったでしょう。
(本当は、少し自慢しています ☆)
いままでに、真正な虫明焼・真葛香山作品を三点掲載いたしました。
それでは、「蓼純Collection」のページに、四点目の虫明焼・真葛香山作品をUPします。
前回は、虫明焼らしい水指でした。
今回は、一見、備前焼を想わせる姿の水指です。
備前焼は六古窯の中で最も古いと言われており、数多くの陶工(陶芸家・作家)を輩出しています。
岡山で備前焼を展示しているショーウィンドーを眺めていたら、いくら時間があっても足りません。
私・蓼純も、備前焼の前で足を止めるのは、
安倍安人(あべあんじん)と、隠崎隆一(かくれざきりゅういち)くらいです。
そんな私が、安倍安人でもない、隠崎隆一でもない、備前焼の前で足を止めました。
その水指をよく見ると、備前焼風ではありますが、備前焼ではありません。
釉薬もちゃんと(?)掛かっています。
ガラス越しに見ていると、骨董屋さん(古美術店)が中から声を掛けて下さり、
ウィンドーから取り出してくれました。
それが、この虫明焼・真葛香山作水指です。
真葛香山も、備前に近い虫明に来て、天下の備前焼を意識したんでしょうね ☆
姿は瓢箪(ひょうたん)の形に作って、全体に櫛目(くしめ)を入れています。
手(指)で、二か所押さえています。
これらの手法は、虫明焼・真葛香山作品の公式のようなものです ☆
作者の個性が出ています。
時代の個性が出ています。
虫明焼の個性が出ています。
銘(印)は、真葛香山が虫明で使った、「むしあけ」印のみ捺されています。
はい、東京国立博物館蔵の茶入れと、同じ「むしあけ」印です。
どうも良く判らないという方は、画像を保存してください。
○年後に、なるほど、これが真葛香山の虫明焼作品だと、感じていただけると思います。
私の父親が亡くなってからも、父が収集していた焼ものは、一点も手放していません。
したがって、父が収集したものと、私が収集したものが有るわけです。
全てが良いものです。
と、いうのが理想ですが・・・
虫明焼・真葛香山作品は、ほとんど全部がニセモノであると何度も、お話いたしました。
私・蓼純も虫明焼と名が付けば、何でも集めていた時期があります ☆
したがって、私の収集品の中にも、全くニセモノだというものがあります。
もちろん、UPしていないものの中にも、私が良い(本物)と思っているものも有ります。
私が90%本物だろうと思っているものを、お会いした時に、お見せすることは問題ありません。
ニセモノを、お見せすることもかまいません。
しかし、HPに掲載するものは、100%間違いが無いと確信しているもの以外はUPしていません。
全く疑義の無い真葛香山・虫明焼作品を、四点紹介いたしました。
真正な真葛香山・虫明焼作品を掲載できるのは、このホームページだけです。
もちろん実物を見るのと、写真とでは違います。
その写真を、画面上で見ていただくと、更に実物と感じが変わります。
それでも、十分参考になったのではないかと自負しています。
今回で取りあえず、真葛香山・虫明焼作品のお話は終わりにいたします。
「虫明焼について・蓼純の虫明焼半可通」は、今までは四季に一度のペースの更新でした ☆
でも真葛香山・虫明焼作品を続けて見てもらうために、頑張って四週間位のペースで更新しました。
次回からは、また、のんびりと更新していこうかなと思っています ☆
おひまな方は、バックナンバーを読み直してみてください。
結構、加筆・追記などしているんですよ ☆
うーん次回は、何のお話をしましょうか(?)
〔第26回〕 2009.03.08
〔第1回〕から〔第21回〕まで、主な陶工(陶芸家・作家)について、お話いたしました。
今回は、主な陶工(陶芸家・作家)と それ以外の人についても、お話してみたいとおもいます。
明治13年発行の岡山県勧業年報によると、虫明焼の職工数は13人であると記されています。
このことは、〔第11回〕でも、お話いたしました。
虫明焼の陶工(陶芸家・作家)が、13人です。
そして、備前焼の陶工(陶芸家・作家)が、25人です。
虫明焼の全盛期(?)です。
明治13年発行の岡山県勧業年報だから、明治12年の実績(データ)であるとは限りません。
前年のデータが直ぐに反映されていたかと言うと、そうではない可能性のほうが高いと思います。
なにしろ、明治時代ですからね ☆
昭和の終わり頃でも、統計資料などが、
前年のデータではなく、2年前とか、3年前の数字だと言うことはよくありました。
ですから、虫明焼の全盛期(?)の明治10年頃に
虫明焼の陶工(陶芸家・作家)であった、と思われる人物を列記してみます。
思われる人物です ☆
虫明焼に従事していた時期が少しズレているために、
勧業年報の13人にカウントされていない人もいるかも知れません ☆
勧業年報の13人の内、何人が判っているのでしょうか。
順不同ですが、虫明焼ですから森香洲(もりこうしゅう)からです ☆
森角太郎の子として生まれ、名前を森彦一郎といいます。
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)の最初の弟子です。
香洲の香は、真葛香山の香の字を、もらっています。
森香洲については、〔第9回〕、〔第11回〕、〔第15回〕などで、お話いたしました。
作品は、瀬戸内市邑久町公民館の太田コレクションに展示されています。
桂又三郎の[備前虫明焼]・[増補・改定備前虫明焼]などにも、載っています。
このHP「今月の抹茶碗/虫明焼の栞」には、毎月載せています。
つぎは、久本葛尾(ひさもとくずお)です。
虫明近辺には、久本という姓が多いようですね。
本名は、久本才八です。
真葛香山が虫明に来た明治初年に、森角太郎窯にいた陶工(陶芸家・作家)です。
葛尾の葛は、真葛香山の葛の字を、もらったと伝えられています。
真葛香山の指導を受けているだけあって、名工です。
明治13年に、虫明から岡山市の天瀬陶器製造所、そして備前に移りました。
久本葛尾の虫明焼作品は、太田コレクションにもありませんし、本にも載っていません。
でも、久本葛尾の備前焼作品は、骨董屋さん(古美術店)に時々出ます。
煎茶器とか、花入れが多いようですね。
[備前虫明焼]174ページの133図には、久本葛尾作備前焼の水注が載っています。
さすが久本葛尾ですね、この水注はいいです。
ただ、備前焼のコレクターでも明治時代の備前焼が好きだ、という人は少ないです。
私・蓼純は、明治備前って好きですけどね ☆
田中巴石(たなかはせき)も、久本葛尾と同じ時期に虫明・森角太郎窯にいました。
でも田中巴石は、なぜ銘を真葛香山からもらわなかったんでしょうか(?)
もらえなかったんでしょうか(?)
まあ、そんなことは いいか ☆
名前は、田中庄四郎です。
田中巴石の急須が、[増補・改定備前虫明焼]131ページの第152図に載っています。
本によると、「巴石」 押印だそうです。
田中巴石の、公表されている虫明焼での作品は、この一点だけですね。
私も、実物を見たことが無いのですが、感じのいい急須を造っていますね ☆
この急須をもたれていた方は、私の父と親交が深かったのですが・・・
すでに亡くなられています。
私も、作品をみせていただいておけば、よかったのですが・・・
田中巴石も、明治13年に久本葛尾と天瀬陶器製造所に移りました。
晩年は、岡山市の後楽園で、お庭窯を復興して、楽焼の茶器などを焼きました。
久本葛尾と、田中巴石のことは、〔第12回〕でも、少しお話いたしました。
次は、赤松平右衛門(あかまつへいえもん)と、永田宗右衛門(ながたそうえもん)です。
この二人は、野田焼(のだやき・兵庫県)から、来ていた陶工(陶芸家・作家)です。
二人とも、銘を入れた作品はないです。
虫明焼の雑器は、野田焼から大きな影響を受けていると、何度かお話いたしました。
以上で5人ですか(?)
他には、・・・
玉峯がいましたね。
川崎玉峯(かわさきぎょくほう)です。
あっ、長くなりましたので、今回はこれで終わります。
「蓼純Collection」のページには、なにをUPしましょうか。
菓子器がいいですか、抹茶碗にしましょうか。
あっ、今回は雑器をUPしてみますね。
虫明焼の大皿というか、大平鉢です。
直径が尺三寸・39cmあります。
野田焼の筒描きにならっているんでしょうね。
白濁釉で、筒描きによる文様を入れています。
私・蓼純は、虫明焼の雑器も大好きです ☆
茶陶とは違って、厚く、重く、大きいです。
雑器の無骨さというか、大雑把さがいいですね。
それでは次回は、川崎玉峯から、お話いたします。
次回は、今回の続きですから、出来るだけ早く更新するつもりです ☆
〔第27回〕 2009.03.15
一週間のご無沙汰でございました。
玉置宏(たまおきひろし)でございます。
古すぎて分かりませんか ☆
(ロッテ歌のアルバムです)
一週間で更新するのは、初めてです。
前・〔第26回〕は、明治13年発行の岡山県勧業年報による、
虫明焼の職工13人のうち、5人を紹介いたしました。
前回紹介した5人については、間違いないと思います。
あと、8人です。
それでは、川崎玉峯(かわさきぎょくほう)からです。
名前は、川崎喜平です。
裳掛村福谷・現在の瀬戸内市邑久町福谷の出身です。
銘(印)の玉峯は、福谷の玉葛山(たまかずらやま・267m)の峯からとったのでしょうか。
川崎玉峯の抹茶碗は、邑久町中央公民館に一点あります。
太田コレクションですね。
太田コレクションは全部、[邑久町史・文化財編]に載っています。
[邑久町史・文化財編]、169ページ12 の緑釉茶碗です。
「玉峯」の印があるようです。
絵付けはありません、灰釉を掛けた抹茶碗です。
玉峯の作品は、珍しいことは否定いたしませんが・・・
邑久町中央公民館には、山根四山(やまねしざん)の作品も一点ありましたね。
[邑久町史・文化財編]の179ページ39 のびわ鉢です。
[備前虫明焼]175ページ、[増補・改定備前虫明焼]103ページにも載っています。
尾形乾山(おがたけんざん)が裸足で逃げるくらいの大きな字で、虫明四山と銘を入れています。
底部には、島根縣石見國・・・ 山根政一郎と書かれているようです。
石見の人なので、「四山」の銘(印)も「岩見 四ツ山城」に由来していると思います。
ほかには、澤村東左(さわむらとうさ)がいます。
[備前虫明焼]146ページ第109図、[増補・改定備前虫明焼]125ページ第143図の
白釉富士の絵茶碗です。
黒井一楽蔵と書いています。
[備前虫明焼]、[増補・改定備前虫明焼]の写真はモノクロですので判りにくいです。
[古虫明・現代虫明焼]を、見ることができる方は、8ページを見てください。
白濁釉地に、雪の富士山の絵付けです。
澤村東左が虫明で焼いたものも、これ一点しか公表されていません。
澤村東左は、京都の三代清水六兵衛(きよみずろくべい)の門弟(弟子)です。
私も、「東左」の印の入った抹茶碗を数点もっています。
清水六兵衛の銘(印)は、六角形の中に「清」と入っていますよね。
澤村東左の銘(印)は、五角形の中に、「東左」と入った印です。
しかし、私のもっている抹茶碗は、京都製でしょうね。
虫明焼では、 な い で す。
「東左」印と「むしあけ」印があれば、お見せできるのですが・・・
そういえば、磁器の染付、大小一対の盃を二組もっています。
底部に、東左と銘を染め付けています。
これは、虫明で焼いたのではないかと思っているのですが・・・
でも、確実ではないのでUPするのは止めておきますね ☆
また、機会があれば、見てください。
なお、「東左」印をご覧になりたい方は、[虫明焼の記録]の30頁 、[備前虫明焼]の189頁、
あるいは、[増補改定備前虫明焼]の308頁に載っています。
あと、5人ですか、このあたりからは殆んど判りません ☆
久本勝次(ひさもとかつじ)がいます。
地元・虫明のひとです。
黒井一楽の窯に従事していた・久本謙一の父親です。
梶原好美(かじはらよしみ)も、いますね。
虫明に梶原乳業があったのですが、こことは関係ないようです。
兵庫県播磨の出身です。
明治14年ごろ愛知県常滑に移っているので、時代的には、いいでしょうね。
ほかには、
[虫明焼の記録]には、浦山松次郎、丸崎万吉、今吉鉄夫、尾崎乙五郎の名前も載っています。
全部で14人になってしまいました。
[増補・改定備前虫明焼]を見ると、
尾崎乙五郎は陶工ではない、裏師の頭であった、
と書かれています。
それでは、尾崎乙五郎を除きます。
尾崎乙五郎を、除くと13人です。
数合わせみたいになってしまいました ☆
明治13年発行の岡山県勧業年報の13人について、一応名前を挙げてみました。
虫明焼を研究されている方で、異論があれば ご教示ください。
私・蓼純は、焼物そのものが好きなだけで、歴史的なことに強いわけではありません。
でも、こうしてホームページに発表することによって、解明する糸口になりますからね ☆
いわゆる叩き台にしていただければ、 と思っています ☆
〔追記〕
明治10年頃の虫明焼の陶工(陶芸家・作家)の一人に、川崎玉峯(かわさきぎょくほう)がいる。
と、お話いたしましたところ、
某虫明焼研究・愛陶家から、「川崎玉峯ではなく、河崎である」とコメントをいただきました。
[虫明焼の記録] [備前虫明焼][増補・改定備前虫明焼]にも、川崎玉峯と記載されています。
しかし、玉峯は邑久町の陶工(陶芸家・作家)です。
河崎家をご存知の、某虫明焼研究・愛陶家が指摘されたとおり、河崎玉峯が正しいと思います。
コメントをいただき、ありがとうございました。
〔また追記〕
私・蓼純は「東左」の銘(印)の入った抹茶碗を数点と、磁器の染付・大小一対の盃をもっている。
と、お話いたしましたが、澤村東左の水指も手に入りました。
この水指も「東左」印だけですが、土(胎土)とか釉薬から虫明で焼いたものだと思っています。
また、機会がありましたらUPしますので、みてください ☆
〔第28回〕 2009.04.19
謹告! 渡り蟹 来たる! 来たる!
岡山に、渡り蟹水盤がきます。
岡山・吉兆庵美術館で、
平成21年5月15日(金)から8月4日(火)まで、
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)展が開催されます。
企画展 真葛香山展 -真葛窯変釉蟹彫刻壷花活- です。
ついに、あの渡り蟹水盤が、岡山にやってきます。
私・蓼純なら、岡山・吉兆庵美術館のオープン時に展示します。
でも、美術館側の方針なのですから、しかたありません ☆
私は、岡山・吉兆庵美術館のオープン初日に行きました ☆
岡山・吉兆庵美術館の、入場券bO00001で入ったのは私・蓼純です。
どうです、スゴイでしょう。
えっ、それほどスゴクないですか、 ハイ、ハイ、
オープン時には、
「焼物や備前焼の初心者の方にも親しんでいただけることを目的としています。」
と、後日に山陽新聞にも書いていたように、初心者好みの備前焼が展示されていました。
がっかりしながら、帰ったのを覚えています。
ところで、初代・真葛香山が造った渡り蟹水盤が、東京国立博物館(東博)にあります。
初代・真葛香山が、明治14年(1881年)の、第2回内国勧業博覧会に出品したものです。
のちに、国の重要文化財に指定されています。
この東博の水盤と同じ形のものが、大正5年(1916年)3月頃に三点造られました。
大正5年(1916年)5月に、初代・真葛香山は74歳で亡くなられていますので、
初代・真葛香山、最晩年の作といわれています。
しかし、私・蓼純は この渡り蟹水盤は、二代真葛香山の作ではないかと思っています。
初代・真葛香山も、晩年には体調を崩して吐血、
また、目も悪く、失明に近い状態であったと伝えられています。
本当に、大正時代の初めに70歳を越えた初代・香山が制作したのか ?
東博の渡り蟹水盤を、大正4年(1915年)に初代・香山が補修しています。
当然、この時に二代香山も実物を見たわけですから、自分自身も造りたいと思い
初代・香山の指導の下に、二代香山が制作した。
と、考えるのが自然ではないでしょうか(?)
それに、明治14年(1881年)作の東博の渡り蟹水盤と、大正5年(1916年)作の渡り蟹水盤は、
写真で見る限り、なぜか迫力(?)が違います。
ともかく、大正5年(1916年)頃に、横浜真葛窯で三点制作された、と言われている内の一点です。
岡山県で真葛香山作品が展示されることは、非常に少ないので、ぜひご覧になってください。
香川県の方も、宇高フェリーに乗ると宇野港から近いですよ ☆
はい、瀬戸大橋を渡っても、早島ICから近いです。
この渡り蟹水盤を見て、焼きものが好きになられた方も大勢いらっしゃいます。
この渡り蟹水盤を見て、真葛香山が好きになられた方も大勢いらっしゃいます。
明治(大正)の工芸技術に、驚いてください。
真葛香山の工芸技術に、驚いてください。
真葛香山作品の写真を見たい方は、
田邊哲人(たなべてつんど)著 [帝室技藝芸員 眞葛香山]という本があります。
この本は、高いです ☆
内容に対してではありませんよ。
税別で2万5千円です。
岡山県立図書館などに在りますので、図書館で見ていただければ、と思います。
大正5年(1916年)頃に、渡り蟹水盤が三点制作された内の、一点は田邊哲人の所有品です。
ですから、吉兆庵美術館所蔵が一点、田邉哲人所蔵が一点です。
じゃあ、あと一点は、ということに当然なりますよね ☆
発表いたします。 ♪♪♪
三点の内 残り一点の渡り蟹水盤の所有者は、 ♪♪♪♪
判明していません ☆
あと一点の渡り蟹水盤は、どなたが、もたれているのでしょうね。
それから、真葛香山のブログを紹介しておきます。
「目指せ!眞葛博士」 眞葛香山 横浜眞葛焼です。
横浜真葛焼は、輸出を中心に行っていたので、ほとんどの作品は海外に渡っています。
ええ、輸出するために、横浜に窯を造ったわけです。
このブログには、海外に渡った作品の写真、文献、カタログ、資料等も多数紹介されています。
真葛香山に関することが、いろいろと載っています。
300回以上更新していますからね ☆
[帝室技藝芸員 眞葛香山]の本と、「眞葛香山 横浜眞葛焼」のブログを紹介いたしました。
本もブログも、大変よく研究・調査されたすばらしいものです。
しかし、実物を見るのが一番です ☆
岡山・吉兆庵美術館の、真葛香山展に行ってみてくださいね ☆
「蓼純Collection」のページには、真葛香山が虫明で造った手鉢(菓子器)を載せます。
[備前虫明焼]などの著者・桂又三郎(かつらまたさぶろう)の箱書きがあります。
はい、以前にも何回かUPしました。
「またー、前に見たことあるよー」 って言わないでくださいね ☆
〔追記〕
オープン時には、備前焼が展示されており、がっかりしながら、帰ったのを覚えています。
と、お話いたしましたところ、
このホームページを見てくださっている方から、
「蓼純は、備前焼が嫌いなのか」と、コメントをいただきました。
いいえ、私は焼きものが大好きです。もちろん、備前焼も大好きです。
林原美術館などで、備前焼展がある時は、会期中に二〜三度は足を運びます。
話が少し長くなりますが、岡田社長が、「岡山に、吉兆庵美術館を作る予定だ」
と、お話されてから、約2年間、渡り蟹水盤を岡山で見られるという想いを膨らませてきました。
オープン時に岡山・吉兆庵美術館に一番に行って、渡り蟹水盤の展示では無く、
備前焼を展示していることがわかりました。
私も、真葛香山作品から、美術館での備前焼を見るモードに切り替えました。
しかし、山陽新聞にも書かれていた通り、コンセプトが初心者向けだったのですね。
私は、焼きものが好きなので、期待しすぎたようです ☆
コメントをいただき、ありがとうございました。
〔第29回〕 2009.07.28
虫明焼と伊木三猿斎(いぎさんえんさい)は、切っても切れない関係にありますが、
伊木忠澄(いぎただすみ)=伊木三猿斎(いぎさんえんさい・1818〜1886年)は、
岡山藩の筆頭家老であり、茶人である。
とだけ紹介していました。
そこで今回は、もう少し詳しく、伊木三猿斎について、お話してみたいと思います。
ですが、焼きもののホームページですので、家老としての業は殆ど省略いたします。
伊木家三代目忠貞は、池田光政が城主の時・寛永16年(1639年)に、
邑久郡を采地として三万三千石を賜り、備前国老の主席となりました。
そして邑久郡裳掛村大字虫明に、家老職一人と藩士を約30名常置させました。
これが虫明と伊木家との繋がりをつくった初めです。
伊木三猿斎というのは、隠居名で庚申塚(こうしんづか)の三猿に因み、
「見ざる」 「聞かざる」 「言わざる」 と自ら三猿斎と称しました。
したがつて、隠居する以前の名は伊木三猿斎ではないわけです。
でも、ややこしくなるので、このページでは隠居前も伊木三猿斎で統一しておきます ☆
文政元年(1818年)に、池田家の家老・土倉一静の三男・助作として岡山で生まれました。
天保4年(1833年)に伊木家の養子となり、若狭忠澄と改名して、
伊木家14代の当主・禄高三万石となります。
天保8年(1837年)12月に、備中生坂藩主・池田山城守政恭の娘と結婚します。
虫明焼は、天保13年(1842年)の備前焼似せもの事件などで廃窯したので、
弘化4年(1847年)に伊木三猿斎は京都から初代清風与平を招いて、虫明・間口に築窯させます。
虫明焼が、京風の焼ものに生まれ変わります。
伊木三猿斎自身も、間口窯の一部に築窯し、
備前焼の手造り、染付なども焼き、銘に「寸瓢」の陽印を捺したものがあります。
この陽印は、[備前虫明焼]127ページ第72図に載っていますね。
「むしあけ」印と、三猿斎の「三」だけ入ったものもあります。
伊木三猿斎のお庭窯は、虫明庭焼き といわれていました。
文久2年(1862年) 3月に、伊木三猿斎は森香洲の父・森角太郎に虫明窯を譲渡しました。
文久3年(1863年)に、裏千家で少庵宗淳の二百五十回遠忌が、催されました。
この時、伊木三猿斎は、かつて少庵が愛蔵していた高麗三島角水指の写しを、
虫明間口で二代清風与平に三十個焼かせて寄贈しました。
この水指の箱書付は、玄々斎が書いたそうです。
以上、[備前虫明焼]・桂又三郎(かつらまたさぶろう)からです。
しかし、池上千代鶴(いけがみちよづる)は、[虫明焼の記録]に、
「高麗三島角水指の写しは、永田宗右衛門、赤松平右衛門が焼いた。」と書いています。
そうですね、二代清風与平を虫明に呼んで焼いたというよりは、
当時虫明窯に従事していた、永田宗右衛門、赤松平右衛門が焼いたと考えるほうが自然です。
二代清風与平が、虫明に来たという記録もないですしね。
この高麗三島角水指の写しは、本に載っています。
[備前虫明焼]61ページ第7図です。
[増補・改定備前虫明焼]では、44ページ第16図です。
写真を見ると なんか、カクカクしていますね。
まあ、角水指ですからね ☆
伊木三猿斎は、若年のころから茶道を好み、松平不昧公に次ぐ大茶人でした。
また、骨董類を愛し早くから手造りの品を焼いていました。
お茶は、初め速見流でしたが、裏千家の玄々斎椅子立の手前を習い裏流に変わりました。
伊木三猿斎の作品に、大樋焼があります。
この大樋焼きは、岡山の荒手屋敷に楽窯を築いて焼いた。
伊木三猿斎は、中年から晩年にかけては、好んで伊賀焼きも多く焼いた。
作行きは、どの作品も多すぎると思われるほどヘラ目を入れて石挟みを付けて景色を添えている。
玄人には出来ない酒脱さが溢れている。
と、桂又三郎は書いています。
私・蓼純は、伊木三猿斎の作品を見たことがないので、判りません ☆
伊木三猿斎が造ったんだ、と言うものは、見たことがあるのですが・・・
伊木三猿斎は、趣味で焼きものを造ったのですから、現存しているものは極めて少ないわけです。
後に造られた・いわゆるニセモノが多くあるんでしょうね。
それぞれの地域で焼くか、それぞれの地域から取り寄せた土、釉薬を使って虫明で焼きました。
したがって、土、釉薬から伊木三猿斎作であるとの断定は出来ません。
では、作風はどうでしょうか。
私・蓼純も、趣味で何十点か焼いたことがあります。
その時々の気分で造って、焼きは出た所勝負 ! という感じです。
素人が少量焼いた位では、作風は出ません。
えっ? お前と伊木三猿斎を一緒にするな! ですか。
大変、失礼いたしました ☆
それでは、伊木三猿斎の作品をみてください。
瀬戸内市中央公民館の太田コレクションに無いので、書籍です。
[備前虫明焼]126ページ第71図に備前焼筒茶碗、127ページ第73図に大樋焼茶碗、
128ページ第74図に黒楽茶碗、129ページ第75図に大樋焼筒茶碗、・・・
そして132ページ第80図に香合が載っています。
どうですか、桂又三郎の言う 「玄人には出来ない酒脱さ」 が伝わってきましたか ☆
嘉永年間には、京都の道具商 楽阿弥・楽侘 と知り合いました。
楽侘は伊木三猿斎の側近となり骨董収集を助けました。
伊木三猿斎は、明治元年(1868年)に、
京都から初代真葛香山(まくずこうざん)を虫明によんでいます。
虫明焼を、京焼風の茶陶へと、さらに進めました。
明治2年(1869年)に隠居して、伊木忠澄は三猿斎と変名します。
世間から離れ、茶の湯三昧の生活を始めようとしたわけです。
しかし、伊木三猿斎は、明治11年(1878年)に、児島湾の干拓事業を行うため、
伊木社を創立します。
この開墾事業のために財産を失い、伊木三猿斎が収集した名器も散逸してしまいました。
明治19年(1886年)3月に、伊木三猿斎は岡山市内で亡くなられました。
墓は、岡山市国富少林寺境内にあります。
「蓼純Collection」の頁に、伊木三猿斎が作ったものを載せたいのですが、なにもありません ☆
「蓼純Collection」の頁は、更新せずにそのままにしておきます。
〔追記〕
高麗三島角水指の写真を上に追加しました。
〔第30回〕 2009.10.10
2009.10.10と書いて気づきましたが、今日はHP「虫明焼の栞」の誕生日です。
「虫明焼の栞」も、6歳になったんですね ☆
HP「虫明焼の栞」を始めたころは、
「虫明」をYAHOO!で検索しても、検索結果が70〜80件くらいでした。
当然ですが、苗字の虫明(虫明亜呂無など)や、邑久町虫明に関係ないことも含めてです。
それが今では、 「虫明で検索した結果 約268,000件」 と出ています。
本当に、268,000件あるのか、どうかは知りませんよ。
全部は見られませんからね ☆
ホームページなども急速に増えました、という雑談でした ☆
それでは、HP「虫明焼の栞」6周年を記念(?)して、
今回は、虫明焼のOEMのお話をしたいと思います。
OEMとは、相手先ブランドで販売される製品を製造することです。
虫明で造った焼きものに、注文相手の銘(印)を入れたものがあります。
ひらがなの「さいだいじ」印と、「一楽」印が入ったものです。
「さいだいじ」は、現在の岡山市西大寺、2月に行われる会陽(裸祭り)で有名です ☆
「一楽」とは、もちろん黒井一楽(くろいいちらく)のことです。
[虫明焼の記録]402ページを見ると、
「岡崎若松氏の縁故者が西大寺観音院境内に窯地を提供するからと、
分窯の敷設を懇望されたが、自窯でさいだいじの銘印入で一窯焚いてそのあとは、お断りした」
と、書いています。
一窯だけ焼いたようですが、「さいだいじ」印と「一楽」印のある抹茶碗を、
骨董屋さん(古美術店)で、私は数回(数点)見たことがあります。
見ただけで、購入はしていません・・・ ☆
香合も、見たことが有ります。これも、「さいだいじ」印と「一楽」印を、捺していました。
そういえば、花入れ(花瓶)も有りました。
この花入れ(花瓶)は、「さいだいじ」印のみで、「一楽」印は捺していませんでした。
自動車とか電気製品の場合は、機能は同じでもデザインを変えているようですが、この陶器は、
特別なデザインではなく、「むしあけ」印の代わりに、「さいだいじ」印を捺しただけのものです。
ですから、銘(印)を見なければ、虫明焼だと思ってしまいます。
ええ、虫明焼ではあるのですが・・・
「さいだいじ」印を捺しているとは、想像もしません ☆
「さいだいじ」印は、[虫明焼の記録] 402ページに写真が載っています。
文字数が五文字(さいだいじ)と多く、しかも一行書きですので縦長の小判印になっています。
もう一つのOEMを紹介しておきます。
鷲羽山焼(わしゅうざんやき)です。
鷲羽山というのは、岡山県倉敷市下津井にある山です。
文庫本[岡山の焼物]・桂又三郎(かつらまたさぶろう)著に、鷲羽山焼の説明が載っています。
[岡山の焼物]を見ていると、岡山県内にこんなに沢山の窯があったのかと驚かされます。
岡山県人でも、備前焼以外の岡山の焼きものを知っている人は、少ないのではないかと思います。
このHPを見てくださっている焼きもの好きの方は、ほかの窯も、ご存知だとは思いますが・・・
岡山県内の窯を、桂又三郎がよく調べています。
短期間だけ焼いた窯、小窯についても網羅しています。
それでは、[岡山の焼物]から鷲羽山焼の記事です。
短いので、全文引用させていただきます。
[岡山の焼物]を、お持ちの方は、112ページです。
「倉敷市児島下津井西山に昭和十八年ごろ、土地の道具屋隈友菊松、数奇者の西口繁、
赤星昭、合田勇氏等が鷲羽山の土産物用として小窯を築く、作品は虫明焼で素焼きを焼
いてもらい、釉薬も虫明の並釉(鶯色の土灰釉)を送ってもらって焼いた。種類は主として
煎茶系統のもので、急須、煎茶茶碗などであったが、また徳利、盃なども焼いた。窯は
一、二回焼いただけで終戦直後に廃窯した。」
と、書いています。
鷲羽山は、日本で最初に指定された国立公園・瀬戸内海国立公園に属しており、
頂上から見る波静かな海に、点在する大小の多くの島の美しさは格別です。
瀬戸内海国立公園に指定された記念切手(5円、10円)も、発行されました。
過去には観光客が多かった時期も有り、
パンフレット、絵葉書、ペナント、記念メダルなどの発売もされていました。
そして他の土産物用として、急須、煎茶器、徳利、盃などを焼いていたようです。
私・蓼純は、「わしう」銘(印)の抹茶碗をもっています。
これは、お土産用ではなく、出資者が使うために注文したものだと思います。
以前に某出資者のお宅に電話をして、鷲羽山焼のことを、お尋ねしようとした事がありますが、
出資者の方はすでに亡くなられており、
家族の方(御子息)が、「父から、話に聞いたことはあるが、作品は見たことが無い」
と、おっしゃっていました。
私が、「わしう」銘(印)の抹茶碗をもっていると、お話したら、「是非、見たい」と言われました。
「また近くに行った時に、お見せします」 と言ったままになっています。
出不精なもので、ゴメンナサイ ☆
声から お年寄りの方だと思ったので、このHPは見てくださっていないでしょうね ☆
西大寺焼と鷲羽山焼が異なるのは、西大寺焼は虫明で造った完成品であるのに対して、
鷲羽山焼は、半製品であると言うことでしょうか。
自動車で言うと、完成品の輸出と現地組立(KD生産)みたいなものですね ☆
虫明でロクロ挽きをし、「わしう」印を捺し、乾燥、素焼きの状態まで造ったものを送り、
鷲羽山で絵付けをして、鷲羽山の窯で虫明釉を掛けて焼いています。
なぜ、そんな面倒なことをしたのでしょうか (?)
これは、絵付けをしたかったのだと思います。
鷲羽山焼の出資者のひとりに絵付けが出きる人がいた。
あるいは、地元に絵師がいた。
と、いうことだと思われます。
絵付けにこだわるために、あえて完成品の購入をしなかったんでしょうね ☆
今回は、虫明焼を違う角度から見たお話しをしましたが、いかがでしたか。
西大寺焼、鷲羽山焼以外にはOEMの虫明焼はありません。
それでは、「蓼純Collection」のページに、鷲羽山焼の抹茶碗を載せます。
絵付けは虫明焼と少し違いますが、土(粘土)と釉薬(ゆうやく)が同じですので、
一見すると虫明焼そのものです。
鷲羽山の松を、描いているんでしょうね。
釉薬は、高台ギリギリまで掛かっています。
虫明焼は、もう少し土(胎土)を見せていますよね。
小窯で焼いたそうですが、温度は虫明窯とほとんど同じくらい上がっています。
「岡崎若松氏の縁故者が西大寺観音院境内に窯地を提供するから・・・」
と、お話いたしました。
岡崎若松は西大寺市神崎の方で、
1951年(昭和26)に黒井一楽が、株式会社組織で、虫明焼を再興した時の社長です。
黒井一楽作であるが、「さいだいじ」印を捺した・抹茶碗、香合、花入れ(花瓶)を見たことが有る
と、お話いたしました。
その後、煎茶碗も見る機会がありました。桐箱に入った・煎茶碗五客です。
この煎茶碗は、「さいだいじ」印のみでした。 「一楽」印は、捺していません。
「虫明 煎茶々碗 一楽造」と、桐箱に墨で書いていました。
ただ、この箱が初箱(共箱)であるのならば、
「虫明 煎茶々碗 一楽造」ではなく、「西大寺 煎茶々碗 一楽造」と、箱書きしたと思います。
この様に「西大寺焼」はよくあるのですが、「鷲羽山焼」は極めてめずらしく、
私・蓼純がもっている この一点だけしか見たことがありません。
〔またまた追記〕
「蓼純Collection」のページに、載せていた鷲羽山焼の抹茶碗です。
銘(印)は平がなで 「わしう」
釉薬(ゆうやく)と土(粘土)は、虫明焼と同じです。
絵付けは松の絵、虫明焼の松の絵と微妙に違います。
〔第31回〕 2010.01.11
最近、澤村東左(さわむらとうさ)の水指が手に入りました。
澤村東左って誰だ? とおっしゃる方のために、
〔第27回〕で、明治10年頃に虫明窯に従事していた、とお話いたしましたが、
澤村東左を、加藤唐九郎編の[原色陶器大辞典]で調べてみます。
京都の陶工。三代六兵衛の門人で1876年(明治9)開業。五角の内に東左と書いた銘を用いた。
と、書かれています。
三代六兵衛とは、三代清水六兵衛(きよみずろくべい)のことですね。
もう少し、詳しく書かれたものは無いでしょうか。
角川[日本陶磁大辞典]には、記載が無いですね。
平凡社[やきもの事典]にも、記載がありません。
何か資料がありましたら、また追記いたします。
その澤村東左が、虫明で造った抹茶碗が残っています。
[備前虫明焼]146ページ第109図、[増補・改定備前虫明焼]125ページ第143図です。
あっ、 [備前虫明焼]146ページに、澤村東左について記されていましたね。
灯台下暗しです ☆
孫引きになりますが、抜粋します。
沢村東左は「五品共進会陶器解説」によると、
京都五条橋東四丁目第三番
平民 沢村東左
元冶元年正月陶工清水六兵衛三世祥雲ノ門ニ入、同氏ノ薫陶ニ依リ工業ヲ伝習ス、
明治九年卒業ノ上、東左ノ号ヲ以テ開業ス、専ラ陶器酒茶用ノ雅品ヲ製ス
とあり、また高草藍山氏は「焼きもの趣味」(昭和十一年十二月号)に、次のように書いている。
長楕円形輪郭の中に平仮名むしあけ印と、五角形の中に東左印併用のものなどであった。
この東左といふのは姓を沢村といひ、三代清水六兵衛頃の別家であった。
明治十年頃まで生きて居って、子が無くて家は絶えた。
今の東左とは全く関係が無いといふことを清水六兵衛氏から聞いた。とある。
東左は明治十年ごろ虫明へ行ったものであろう。作品も非常に少なく、土地の人々も殆ど
東左のことを知らないから、余り永く虫明で焼いていたのではあるまい。
と、著かれています。
少しややこしくなりましたが、桂又三郎が、[五品共進会陶器解説]と、[焼きもの趣味]から、
澤村東左に関する事項を抜粋したものを、[備前虫明焼]の146ページに掲載しています。
それでは、澤村東左の作品です。
大田Collectionにはないので、書籍です。
[古虫明・現代虫明焼]8ページには、綺麗なカラー写真で載っています。
[備前虫明焼]146ページ第109図、[増補・改定備前虫明焼]125ページ第143図。
どの本も、同じ抹茶碗の写真です。
白濁釉地に、富士山の絵付けです。
これは、黒井一楽(くろいいちらく)が所蔵されていました。
黒井一楽が、平成3年(1991年)虫明焼の講演をされた時、この抹茶碗について説明しています。
[岡山の自然と文化11]の109ページです。
ここにも、同じ富士山の絵付の抹茶碗の写真があります。ナンバーbR5です。
スライドを映しながらの説明をそのまま文章にしていますので、口語体になっています。
転載させていただきます。
「これは白薬をかけて、これは沢村東左の茶碗です。この東左という人は虫明でわずかな期間、
何箇月おったのか半年位おられたのでしょうか、余り長くおられたようではないんですけど、
作品がごく少ない。これは、私が持っているのですが、その他はこの間行ってみましたぐらいで、
滅多に東左の茶碗は見ることはありません。この人は中々、いい腕を持っていたと思います。
この茶碗も自分が持っているからなんですが、いい茶碗です。ちょっとこれは縁の方へ乳が
一ヵ所入っております。富士山もこれは白釉を使ってちょっと浮きでた富士山になっています。
と、書かれています。
「清風の来ていた当時・・・」 と、話されていますが、清風の来ていた当時ではありません。
私は、黒井一楽の長男・黒井慶雲(くろいけいうん)作の、富士絵抹茶碗を持っています。
澤村東左の富士絵抹茶碗を参考に、黒井慶雲が造ったんだと思います。
澤村東左は、ごく短期間の滞在です。
清風与平(せいふうよへい)、真葛香山(まくずこうざん)ほどではありませんが、
虫明焼に京焼の影響を与えた人 なのかもしれません。
三代清水六兵衛の弟子だったんですから、名工だったんでしょうね。
澤村東左は、いい腕を持っていたと思います と、黒井一楽も言っています。
私・蓼純も、澤村東左の水指、抹茶碗、盃を何点か持っています。
澤村東左は、轆轤(ろくろ)の上手い陶工(陶芸家・作家)だったんだな と、私も思います。
それでは、「蓼純Collection」のページに、澤村東左の水指をUPします。
この水指は「東左」印のみ捺されています。
そうです、五角形のなかに「東左」と書かれた銘(印)です、深く鮮明に捺されています。
残念ですが、「むしあけ」印はありません。
しかし、土(胎土)も釉薬(ゆうやく)も、虫明のものだと思います。
この水指は、澤村東左が虫明に来られた時に造ったのではないでしょうか(?)
撫四方(なでしほう)です、塗り蓋がついています。
他には、虫明で焼いたと思われる酒盃があります。
染付です、大小一対の酒盃で、二組・四点あります。
磁器ですが、焼きが甘いのか、原料の長石が少なかったのか、陶器の様な感じにあがっています。
水指の次に、この盃も「蓼純Collection」のページにUPしてみたいと思います。
東左銘(印)のものは、ほかに黒釉の抹茶碗、黄伊羅保(きいらぼ)抹茶碗などをもっています。
しかし、これらは京都で焼いたものだと思います。
〔追記〕
黒井一楽が所蔵されていた澤村東左・富士の絵抹茶碗の、銘(印)の有無について
黒井・虫明焼窯元にメールでお尋ねしたところ、
「澤村東左の抹茶碗は印(むしあけ、東左)があったと思われます。
念のため、実物を確認しようと探したのですが、整理しなおしたため、すぐに見つからず、
以前に見た記憶での返答とさせていただきました。」
と、いう返信メールが届きました。
回答をいただき、ありがとうございました。
〔また追記〕
骨董商有隣堂・石原岩次郎が、[有隣堂雑記]で、
「東左」印の解説に、 「清風カ真葛カノ石焼ナリ」
と記しています。
もちろん誤った説明ですが、骨董商有隣堂・石原岩次郎が鑑ても、
清風、真葛に劣らない位の名工だったという証です。
〔またまた追記〕
黒井一楽が、昭和58年に 「古稀記念 虫明焼黒井一楽 七十碗展」 を、
大丸心斎橋店で、開催されました。
古稀(70歳)にちなんで、七十碗です。
この七十碗のなかに、富士の絵を描いた抹茶碗が、四碗もあります。
澤村東左の富士の絵抹茶碗に、黒井一楽も、かなり魅かれるところがあったのだと思います ☆
〔まだ追記〕
「蓼純Collection」のページに、澤村東左の水指をUPしていたのですが、
現在見ることができないので、ここに再び載せました。
この水指は「東左」印のみ捺されています。
「むしあけ」印はありません。
撫四方(なでしほう)です、塗り蓋がついています。
〔第32回〕 2010.03.21
今回は、虫明焼の展示会の紹介です。
岡山県立博物館、分かりますよね・・・ 後楽園の入り口のところです ☆
岡山県立博物館の第4室に、虫明焼が展示されます。
期間は3月18日(木)から4月18日(日)です。
あっ、もう始っていますね。虫明焼が展示されています。
春季展「岡山の歴史と文化」・特別陳列「虫明焼」です。
3月27日(土)と、4月10日(土)の午後2時から3時の間に、
学芸員の方が展示解説をしてくれるようです。
ギャラリートークですね。
何点展示されているのかは分かりませんが、
虫明焼の展示会は滅多に無いので行ってみてください ☆
後楽園で遅咲きの梅、早咲きの桜を楽しんでください ☆
ついでに、骨董市の紹介もしておきます。
第2回おかやま骨董アンティーク市が、
3月27日(土)と3月28日(日)に、問屋町の
岡山県卸センター・オレンジホールで開かれます。
私・蓼純も第1回のときに行きました。
出不精ですが、要所要所は押さえています ☆
第1回は、かなりの賑わいでしたよ。
「岡山骨董市」ではなくて、「おかやま骨董アンティーク市」です。
岡山が、ひらがなで書かれているのと、
アンティークとカタカナが入るのが良いのでしょうか、若い方も大勢こられていました。
虫明焼も、出ていると思います。
出ていないかなー ☆
あと一つ、少し先になりますが瀬戸内市中央公民館でも、虫明焼の展示会が開催されます。
「虫明温故館準備室中間報告展」という、漢字ばかりで堅苦しい名前の展示会です ☆
虫明温故館を創る準備をしているのでしょうね。
瀬戸内市中央公民館、場所は分かりますよね(?)
そうです、虫明焼・太田巌コレクションを常設展示している所です。
6月5日(土)と6月6日(日)の予定です。
現代作家ではなくて、古い虫明焼が展示されると思います。
今回はCMのようになっていますが、どことも利害関係は有りません。
「虫明焼の栞」は、常に純粋な虫明焼のHPです ☆
「蓼純Collection」のページに澤村東左(さわむらとうさ)の水指を載せた次に、
盃をUPすると言いましたが、更新していませんでした。
澤村東左の盃を載せましたので、ご覧ください。
大小の磁器の酒盃が二組・計四つあります。
そのうちの一つは、磁器ではなく陶器のようにみえます。
勿論、同じ窯で同じ原料で焼いたのでしょうが、温度が上がらなかったんでしょうね。
爪でたたいても、磁器の音ではなく、陶器の音がします。
〔追記〕
岡山県立博物館で開かれている、春季展「岡山の歴史と文化」・特別陳列「虫明焼」が、
山陽新聞2010年4月7日付に紹介されていましたので転載させていただきます。
茶陶の世界では知られた存在ながら、まとまった形で取り上げられる機会が少なかった虫明焼の
歴史に光を当てる特別陳列が、18日まで開かれている。12日休館。江戸時代中期、岡山藩家老
伊木家のお庭焼きとして、瀬戸内市邑久町虫明に開かれた虫明焼。その歴史のうち、現在に直接
つながる幕末期からの流れを、初公開の同館寄託品と瀬戸内市所蔵品を中心に計24件で紹介する。
薄作りで、灰緑色の土灰釉を基本に、鉄釉や色釉で絵付け、掛け分ける穏やかなみやびやかさ。
今に続く作風は、茶人でもあった伊木三猿斎が京都から招いた初代清風与平、二代楽長造が礎を
築いたことが見て取れる。さらに、長造の弟初代宮川香山(作品はなし)から、地元出身の森香洲、
横山香宝、県重要無形文化財保持者・黒井一楽へと継承された系譜や、昭和初期の窯を支えた
岡本英山の存在が照らされる。それにしても、廃藩後はいつ絶えてもおかしくない苦しい経営状態が
続いたという。備前焼と違い、庶民の器としての足場を持たなかったからだろう。
その中で、現在まで窯の火がつながれたことは逆に、虫明焼の魅力を証明しているようだ。
担当の鈴木力郎学芸員は「今後、虫明焼の研究が深まるきっかけになれば」と話している。
〔また追記〕
[岡山県立博物館だより]73号に、鈴木学芸員が特別陳列「虫明焼」の解説をされていますので、
転載させていただきます。
虫明焼は、岡山県瀬戸内市邑久町で焼かれている陶器で京焼の流れを汲むものです。
この虫明の地は岡山藩筆頭家老、伊木家の領地で、お庭焼として、この地に焼物が生まれました。
その作陶の技法としては透明釉を基本としたもので、松の木の灰釉、鉄釉、銅釉など作品の種類は多様です。
筒描き、絵付け、掛分け、流しぐすりなど伝統的な手法で作られた作品は、和室の中に
映える華やかさと同時に落ち着いた雰囲気をかもしだします。
やわらかな曲線と、緑がかった薄茶色など、色調の美しさも特徴です。
かつての窯には、名工、清風与平や宮川香山が招かれ、尾形乾山や古田織部らの手法を採り入れ
つつ、独自の技法が生まれ、地位を確立したといえます。現在の窯元も伝統の中にも新しい虫明焼
の作陶に取り組み、高い評価を得ています。今回の展示では、虫明焼という焼物を知っていただく
ために、明治・大正期から現代の作品を中心に展示をし、古虫明と呼ばれる古い時代のものも紹介
しました。これらは、地元、瀬戸内市の邑久町公民館に常設展示してある虫明焼で、生涯をかけて
古備前や虫明焼などの収集に努められた故太田巌氏(1906〜1999)から、旧邑久町に寄贈された
貴重なものです。さらに、虫明焼中興の祖とされる森香洲や近代の名工、岡本英山をはじめとする
作品を紹介しました。お茶席などで色々な取り合わせにおいて、どの焼物にもしっくりとあう虫明焼の
優美な世界を感じていただけたと思います。
と、記されています。
岡山県立博物館の春季展「岡山の歴史と文化」・特別陳列「虫明焼」の、
ギャラリートークは、鈴木学芸員がされました。
私・蓼純も、聴かせていただきました。
大変勉強になりました、ありがとうございました。
〔第33回〕 2010.07.13
前回紹介いたしました瀬戸内市中央公民館での、
「虫明温故館準備室中間報告展」に、私・蓼純も行きました。
これは、某虫明焼研究・愛陶家が一人で集められたものです。
虫明に関する資料が沢山ありました。
某虫明焼研究・愛陶家は、地元・虫明の方なので、
窯跡(物原)から発掘された陶片も、展示していました。
私・蓼純は、焼きもの以外のものは あまり見ませんでしたが、
虫明に関係のある書画なども、多数展示されていました。
焼きもの、書籍・資料の多さに驚いて、
「よお、これだけ集めたなあー」と、私が言うと、
「家には、まだまだあるでー」と、おっしゃっていました。
入館者も意外(?)と多かったですね。
入館者の方々が、某虫明焼研究・愛陶家にいろいろと質問していました。
やはり地元ですね、熱心な方が多いです ☆
その中の一人の方が、
「土は、何処の土を使っているのか」と訊いていました。
土(粘土)は、何処の窯でも窯場に近い所の土を使います。
というか、土(粘土)が出る場所に窯を作るわけです。
土(粘土)と燃料(薪)を、遠くから運ぶのは大変ですからね ☆
備前でも、有田でも、唐津でも、瀬戸でも、・・・
土(粘土)の採れる所に、窯が造られました。
私・蓼純は、土(粘土)は虫明窯の近くで採ったのだろうと漠然と思っていましたが、
何処で掘ったのかとは、あまり考えていませんでした。
しかし、このHP「虫明焼の栞」を見て下さっている方の中にも、
土(粘土)の採取場所に興味のある方も、いらっしゃるかと思いますので、
今回は、虫明焼の土を採取している場所などを話してみます。
同じ釉薬を使っても、土(粘土)の違いによって、発色が違いますからね。
[備前虫明焼]から、抜粋しています。
原文のままではありません、長いので適当に省略しています ☆
原文を見たい方は、[備前虫明焼]の201ページです。
「陶土も窯によって違う。瀬戸窯では比較的水分の少ない水ひ土を使用しているから、
よく焼き締まった陶土をみると、半磁器のように堅い土もある。胎土は淡い灰色のものや、
濁った暗白色のものなどがある。
池奥窯の陶土は、池奥窯の付近にある田土を使用していた。この土は、とても扱い易く、
しかも焼くと土の中から緋色が出てくるということである。
間口窯の土は作者によって違っていた。清風の土はきめの細かい白色で京焼と同様であり、
二代楽長造の土は鉄分のある茶色の土で、きめはやや荒い感じがする。真葛宮川香山の使用
した土には二通りの種類がある。一つは、キナ粉のようにカサカサして、しかも柔らかい感じの
する淡い朱色の土で、この手は初期の作品で傑作も多い。また一つは淡い灰色の堅い手で、
分子も細かくやや半磁器のような感じがする。
この手は後期の作品に使用されたものである。
この土が、その後の虫明焼にながらく用いられてきた。
岡本英山窯では、播州二見の土と、黒井山の土とを混和したものである。半磁器を作る場合は
敷井(邑久町尻海)の土を用いた。横山香寶が瀬溝で使ったのも同様である。池奥や瀬戸の窯
の陶土は虫明の上町の土で、明治になって香洲時代から二見の土を使って居る模様である。
もっとも二見の土も、土質は以前に比べると悪くなって居る。
なお虫明焼の土の特徴は、焼くと高台の畳付や高台内の一部に緋色が現れることで、これは
土の中に含まれている塩分が熱によって発色するものである。」
と、書かれています。
虫明の土(粘土)だけを使っている、と思っていましたが、そうでもないんですね ☆
虫明窯には、兵庫県の野田焼の陶工(陶芸家・作家)が来ていたこともあって、
二見(ふたみ・兵庫)の土(粘土)も使っていたんですね。
そういえば、父から 昔そんなことを聞いたような気もします ☆
虫明窯は海に近いので、舟で明石(あかし・兵庫)から二見の土(粘土)を運んだんですね。
焼きものが、どこで造られたか・産地を決定するには、土(胎土)が一番です。
造られた年代を推定するのも、土(胎土)が一番です。
土(胎土)をみると、窯の個性が表れています。
焼きものを見て、虫明焼とすぐ判断できるのは、やはり土(胎土)の個性です。
そうでもないか ☆
土(胎土)をみる前に虫明焼だと判るのは、釉薬の個性かな、姿・形の個性かな ☆
ともかく、手に取ることのできるものなら、私は必ず土(胎土)を見ます。
いい焼きものの土(胎土)は、見ていて飽きません ☆
古い虫明焼は、鉢や徳利などの雑器でも、いい土(粘土)を使っています。
「蓼純Collection」と、「今月の抹茶碗」に写真をUPするときも、土(胎土)を見せるようにしています。
これは、高台を見てもらいたいのは勿論ですが、
虫明陶の土(胎土)に馴染んでいただきたい、と思っているからです。
虫明焼の土(粘土)は、水簸(すいひ)した細かい土(粘土)を使っています。
もちろん、抹茶碗でも意図して荒い土を使うこともありますが、虫明焼は基本として細かい土です。
虫明焼は茶陶が中心なので、「蓼純Collection」のページも、
抹茶碗、水指、それに菓子器のUPがほとんどでした。
そこで、今回から「蓼純Collection」のページに、筒花入れを何回か載せてみます。
茶陶とは違う虫明焼を、筒花入れでお楽しみください。
薔薇(ばら)の花は美しい、百合(ゆり)の花は美しい。
そして、茄子(なす)の花も、胡瓜(きゅうり)の花も美しいという感じです。
「どんな感じなんだ!」と、いうところで今回は終わります。
ますます暑さに向います、お身体に気をつけてくださいね ☆
〔追記〕
高草藍山(たかくさらんざん・高草平助)が、「備前蟲明焼の研究」の論文のなかで、陶土のことを、
書かれていますので、抜粋させていただきます。[焼もの趣味]、昭和11年9月号です。
蟲明焼の伊木家の窯以來、用ゐた陶土のことを調べて見ると、色々の説がある。
一・ 伊部及び蟲明の小山といふところの土を用ゐた時期があるとの説、これには伊部の土は
使はなかつたといふ反對論がある。伊部の土と見紛はれるのは焼の火加減によるものである
といふのがある。
一・ 片上又は蟲明地方の土を混合し、時としては岡山東山附近の素土を用ひ、又時として各地 の原土を取寄せ混ぜしものなり。(備前陶窯誌)
一・ 邑久郡長濱村の小津及び奥浦に播磨西二見の産土を加へた又白色器には
和氣郡八木山の白土を用ゐた。(近代日本窯業史)
大體かういふ説であるが、結局原料とした陶土は終始一定したものでなく、荒土も、中土も、
細土もあつて、時代により作品によつて、陶土は色々違つて居つたものと思はれるが、多くは
蟲明又は蟲明の附近の原土が主體をなして居つた事であらう。
陶工横山喜八老人の話を聞くと、現在では、播州二見の土と、蟲明黒井山の土や、近村の
土を混和したものを用ゐて居る。長濱村の土は最早出なくなつたし、八木山の白土は焼成に
ウマク行かぬ故使はないとの事である。岡本の窯では、赤穂の土を使つて居るといふ事である。
〔第34回〕 2010.10.03
瀬戸内市立美術館が、
平成22年10月1日(金)、岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓に開館(オープン)しました。
瀬戸内市役所牛窓庁舎内の、3階と4階です。
私・蓼純も、昨日・10月2日(土)に行ってみました。
ブルーライン邑久ICから、南に7km位のところです。
岡山市からだったら、西大寺ICで下りても、いいですね。
美術館から、日本のエーゲ海・牛窓の海を臨む事が出来る良い場所にあります ☆
瀬戸内の穏やかな海っていいですよね、大好きです。
漁舟が一隻通っただけで、感激してしまいます。
瀬戸内市立美術館は、佐竹徳(さたけとく1897〜1998)の作品が中心の美術館です。
( 佐竹徳? 私は初めて聞いた名前です ☆ )
佐竹徳は、昭和34年(1959年)から30余年、牛窓オリーブ園を拠点に制作を続け
「オリーブの画家」として親しまれたそうです。
私・蓼純も久々に、美術館で画をみさせていただきました。
大作、力作が、3階と4階のフロアに、ところ狭しと展示されていました。
今回は、「開館記念 佐竹徳展」ですので、彼の作品だけを展示しています。
瀬戸内市立美術館のHPを見ると、「市ゆかりの芸術家のご紹介」という頁があります。
市ゆかりの芸術家として、十数名の名前が列記されています。
ほかの方々の作品も、順次展示していただけると嬉しいです。
瀬戸内市立美術館のHP・「市ゆかりの芸術家のご紹介」の頁に、
虫明焼では、次の四人の陶工(陶芸家・作家)が紹介されています。
四人とも、虫明焼の歴史を作られた偉大な方々です。
このHP・「虫明焼について・蓼純の虫明焼半可通」でも既に紹介いたしましたが、
瀬戸内市立美術館のHP・「市ゆかりの芸術家のご紹介」から引用させていただきます。
簡明に紹介されています。(原文のまま)
岡本英山(1881〜1962)
岡山県美作市生まれ。
生家が日用品を焼く窯屋であり早くからろくろを扱い、明治40年から山口県や九州まで
陶工として渡り歩き帰郷した。
大正元年再び京都や伊部で作陶活動を続け、大正7年虫明焼復興も兼ねて来窯。
しかし、大正13年に廃窯。
昭和7年再び虫明に窯を築き、虫明焼の復興と名声を高めた。
黒井一楽(1914〜1996)
瀬戸内市邑久町虫明生まれ。
昭和8年に横山香宝に師事する。
昭和13年以後、日本各地で個展を開催し、虫明焼を広める。
昭和55年には岡山県重要無形文化財虫明焼制作技術保持者に認定される。
昭和61年 三木記念賞受賞
森香洲(1855〜1921)
瀬戸内市邑久町虫明生まれ。
文久3年に伊木氏より父が窯を譲り受け、明治元年に真葛宮川香山が窯を訪ねた際に
3年間指導を受け、陶工となる。
名声を得たが、長くは続かず明治13年に廃窯。
明治15年に黒井覚弁氏の支援を受けて再興を図ったが、明治19年に同師へ窯の権利を譲る。
明治28年に地元の有力者に呼びかけ再興を図り、虫明焼固有の味を出した代表的な作品を
数多く生産したが、明治32年廃窯した。
大正7年に備前焼陶器株式会社虫明工場が設立されると工場長に迎えられたが、備前焼と
同時生産した関係でしばらく務めた後に辞職した。
虫明焼中興の祖である。
横山香宝(1869〜1942)
瀬戸内市邑久町虫明生まれ。
明治16年に森香洲に師事する。以後、兄喜代吉(初代香宝)とともに香州の裏方として支える。
香州、兄の死後、昭和7年地元有志の協力を得て瀬溝に築窯し独立する。
2代目香宝を名乗り、年5〜6回窯をたき、虫明焼の発展につくした。
昭和9年には弟子であった黒井一楽に窯を譲り、指導のかたわら手伝いをした。
〔第35回〕 2010.11.02
企画展 「真葛香山展―まぼろしのやきもの―」 が、
平成22年11月12日(金)から平成23年02月08日(火)まで
岡山・吉兆庵美術館で、開催されます。
下記は、吉兆庵美術館のHPからの抜粋です。(原文のまま)
「真葛香山は、装飾性の豊かな陶器や、筆づかいの美しい磁器などで国内外から高く評価され
ました。
なかでも初代香山の作品は、万国博覧会などで受賞を重ね、名実ともに明治・大正期の日本を
代表する陶工の一人とされています。欧米より「マクズウェア」と呼び称され、隆盛を誇った真葛
窯ですが、昭和20年の横浜空襲により三代香山と窯場と亡くし、その影響から失われました。
本展では、幻の焼物とされる名工・真葛香山の陶磁器作品を、代表作である大鉢に渡蟹を貼り
付けた装飾陶器を中心に約60点展示いたします。」
と、書かれています。
企画展 「真葛香山展―まぼろしのやきもの―」 です。
俵万智(たわらまち)の歌に、
まぼろしの讃岐うどんの特集で テレビ画面に映るまぼろし
と、いう歌がありますが、真葛香山の横浜焼作品も、「まぼろし」ではありません ☆
吉兆庵美術館の今回の展示で、約60点展示されるそうです。
「まぼろし」ではないですね ☆
[帝室技藝員眞葛香山]の著者・田邊哲人(たなべてつんど)も、
真葛香山の横浜焼作品を、数百点収集されています。
「まぼろし」ではないですね ☆
ほかにも、横浜の宮川香山眞葛ミュージアム、石川県立美術館なども所蔵しています。
「まぼろし」ではないです。現実です。多くの作品が実在しています。
「まぼろし」はともかく、岡山・吉兆庵美術館で真葛香山作品をみることができます。
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)と虫明焼との関係は、何度もお話いたしましたが、
明治元年(1868年)、真葛香山は伊木三猿斎(いぎさんえんさい)に招かれて、
京都の真葛原から、岡山の虫明窯にきました。
明治3年(1870年)まで虫明に滞在して、その後横浜で輸出陶磁器を造っています。
虫明焼・森角太郎窯の陶工(陶芸家・作家)を指導し、制法を教示しました。
自らも抹茶碗、水指、菓子器などの茶陶を造りました。
真葛香山が虫明窯に来た時の、最初の弟子である森香洲(もりこうしゅう)は、
その後も真葛香山を慕って、何度も横浜真葛窯に行っています。
真葛香山の焼きものに対する美意識・技術が、森香洲から横山香寶(よこやまこうほう)、
そして黒井一楽(くろいいちらく)へと伝えられ、現在の虫明焼に生きています。
真葛香山の虫明滞在は、およそ2年間です。
しかし、現存している虫明焼・真葛香山作品は非常に少ないです。
オープンにはしていないが、もたれている方がいらっしゃると思いますが・・・
それでも、虫明焼・真葛香山作品は30点残っているでしょうか(?)
30作品は、ないですね。
東京国立美術館蔵の、褐釉蟹貼付台付鉢(渡り蟹水盤)が、重要文化財になっています。
これは、明治14年に造られたものですが、同形の作品が大正5年頃に造られています。
これが今回、岡山・吉兆庵美術館に展示されます。
はい、二度目の展示です。
一年半前に展示された時にも、このHP「虫明焼について・第28回」で紹介いたしました。
田邊哲人の収集品は、輸出用の大きな花入れが多いのですが、
吉兆庵美術館のものは、香合、香炉などの日本人向きの小さなものが多いようです。
渡り蟹水盤は、大きいですけどね ☆
田邊哲人と吉兆庵美術館は、渡り蟹水盤を接点にして好対照の収集といえそうです。
真葛香山の工房も、多いときは百人前後の陶工、絵師等がいて、いわゆる分業でした。
しかし香合、香炉などは、真葛香山自身が造ったといえるかも知れません ☆
ぜひ、岡山・吉兆庵美術館にいってみてください ☆
最後に、真葛香山・横浜焼に興味がある方に新刊書を紹介しておきます。
「世界に愛されたやきもの MAKUZU WARE 眞葛焼 初代宮川香山作品集」
山本博士編著 神奈川新聞社発行 本体3800円です。
150点の真葛焼が掲載されているそうです。
私・蓼純も、ネットの本屋さんから取り寄せました。
非常にいい書籍ですので、ご覧になってください。
すこし寒くなってきましたね、でも紅葉が楽しめる良い季節です ☆
〔第36回〕 2010.11.20
前回紹介しました岡山・吉兆庵美術館の企画展「真葛香山展―まぼろしのやきもの―」に、
私・蓼純も、行ってきました。
窯変釉蟹彫刻壷花活(渡り蟹水盤)と、一年半ぶりの再会をしてきました ☆
渡り蟹水盤は、近づいたら蟹が逃げてしまう、位のリアルさです ☆
香合、香炉など、どれも素晴らしいものばかりです。
小さな作品にも繊細な細工、絵付けがなされています。
花入れ(花瓶)や壷も、良いものが展示されていましたね。
私好みは、乾山意芙蓉絵菓子器と、古清水意水指です。
この古清水意水指はすごいですよ。
花弁を全面に一枚一枚丁寧に描きこんで、さらに透かし彫りがされています。
その美しさには、息をするのも忘れてしまいます。
球状にして、つまみを鳥にした香炉も良かったですね。
鳳凰をイメージしたのでしょうか。
これも、全体に透かし彫りを施こしています。
さすが吉兆庵美術館です、いいものを沢山もたれています。
平日だったせいか、入館者は少なかったです。
私は、ゆっくりと見ることが出来てよかったですけどね ☆
今展覧会の見せ場は、初代真葛香山と二代香山の渡り蟹水盤を、
並べて展示していた所でしょうか ☆
二代真葛香山作の、真葛香山意渡り蟹水盤が展示されていました。
私も二代真葛香山については殆ど知りませんが、二代真葛香山って、どうなんですか。
ヘタ と言ったらなんですが・・・
何も訴えてこないというか、要は魅せられません。
二代真葛香山作品も、本に載っているものには良いものも有るのですが、
工房ですから初代真葛香山時代の陶工、絵師などが残っていたからなんでしょうか。
二代真葛香山の造った抹茶碗などを見れば、技能が判るのですが・・・
まあ、いいですね。二代真葛香山は虫明焼とは、全く関係がない人です ☆
源吉兆庵は全国展開どころか、海外にまで店舗がある大きなお菓子屋さんです。
源吉兆庵 発祥の地は岡山です。
( 私・蓼純の実家と同じ町内です。以前は小さな店でした。)
源吉兆庵・岡田社長も、地元・岡山に関連するような作品を展示して、
美術品にふれる機会をたくさん提供したいと、美術館を造る前からおっしゃっていました。
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)と虫明焼とは、切っても切れない関係にあります。
岡山・吉兆庵美術館のおかげで、岡山で良い焼きものを見ることが出来ます。
折角の機会ですので、岡山・吉兆庵美術館で真葛香山作品を楽しんでください。
私も、また行ってみるつもりです ☆
来年・平成23年02月08日(火)までの展示予定です。
前回まで「蓼純Collection」のページには、筒花入れを数点UPしていました。
最後にUPした花入れは、真葛香山の絵師・呉石の絵付けだと思って残していました。
今回は、磁器染付の酒盃(さかずき)を載せてみます。
植物(花)の絵を描いた、大中小の三重酒盃(みつがさねさかずき)です。
虫明で菊渓幽人(きっけいゆうじん) が絵付けしたものです。
ご覧になってください ☆
〔追記〕
「蓼純Collection」の頁に載せていた・真葛香山作の三重酒盃の写真は既に削除したので、
ここに再掲いたしました。
高台内に 「大日本真葛造」 の銘。
植物(花)の絵付けをして 庚午(かのえうま・明治三年) 於明浦 菊渓幽人 と書いています。
〔第37回〕 2011.02.15
瀬戸内市中央公民館の太田コレクションには、太田巌(おおたいわお・1906〜1999年)が
収集(寄贈)した虫明焼作品を、常設展示しています。
太田コレクションだけを見ても、虫明焼の特徴や変遷が分かります。
それに、常設展示していることで、虫明焼ファンの共通の話題になります ☆
太田コレクションの全作品が、[邑久町史・文化財編]という本に掲載されています。
158から167ページの「邑久町指定虫明焼一覧表」に、「名称」、「作者」、「銘記」、「法量」、
「材質・技法等」などが、記載されています。
注意書きとして、
「作者・名称等若干疑わしいものもあるが、寄贈者の遺志でもあり、あえて変更しなかった。」
と、書かれています。
したがって、教科書ではありません。問題集でしょうか、参考書でしょうか ☆
今回から、瀬戸内市中央公民館の太田コレクションを見ながら、お話をしていきます。
[邑久町史・文化財編]の「太田コレクションと虫明焼」の写真を、引用させていただきます。
このHP「虫明焼の栞」への写真掲載許可を、瀬戸内市教育委員会からいただいています。
それでは、「太田コレクションに学ぶ」・第1話です。
緑書は 「邑久町指定虫明焼一覧表」 (「虫明焼一覧表」) からの資料(データ)です。
森香洲(もりこうしゅう・1855〜1921年)は、地元・虫明の人で、名を彦一郎といいます。
森香洲の父親・森角太郎(もりかくたろう・1825年〜1906年)は、文久2年(1862年)に、
伊木三猿斎(いぎさんえんさい)から、虫明窯を譲り受け窯主になっています。
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)が、明治元年(1868年)に京都から虫明窯に来ました。
森香洲は、この時に、真葛香山の門弟となります。
その後も、真葛香山が横浜で開窯した横浜焼に、数回行って何年も指導を受けています。
森香洲は、真葛香山の最初の弟子です。
全国的には無名ですが、森香洲は同時代の誰と比較しても劣らないほどの名工です。
森香洲の「香」は、真葛香山の「香」の字を、もらったものです。
森香洲の現存作品は少なく、しかも流通しているものは殆んどありません。
骨董屋さん(古美術店)にも、森香洲作品が出ることは、ほとんど無いと思います。
このHPには、「今月の抹茶碗」として、森香洲の抹茶碗を毎月載せていますので、
作風を感じ取っていただけていると思っています。
写真1 名称欄 「松絵茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「香洲印」
材質・技法等欄 「鉄絵、高台内外無釉、還元炎焼成」
「むしあけ」印はなく、「香洲」印のみ捺しているようです。
香洲は、作品に「むしあけ」印のみ捺すことはよくあるのですが、
「香洲」印のみ捺しているのは珍しいです。
いい抹茶碗ですね、乾山意です。松の絵を力強く 鉄釉で描いています。
写真2 名称欄 「桜絵茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印 香洲印」
材質・技法等欄 「四方形、割高台、幹・枝は鉄絵、花は白化粧土、高台内外無釉、中性炎焼成」
轆轤挽きした後に、手(掌)で押さえて、撫四方(なでしほう)にしています。
12ヶ月抹茶碗の内、3月の抹茶碗です。
12ヶ月抹茶碗は、真葛香山(まくずこうざん)の写しですので、真葛香山に倣って、
「むしあけ」印のみを捺し、作者銘(印)を入れないのが原則ですが、
この抹茶碗は、「香洲」印も入っているようです。
写真3 名称欄 「土筆絵茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印 香洲印」
「材質・技法等」欄 高台内外無釉、酸化炎焼成気味で焼けが甘い
この土筆(つくし)絵茶碗は、柔らかい感じにあがっています。
火力の弱い場所だったので、酸化炎ですが低温焼成されています。
酸化炎 低温焼成の焼きが、土筆の絵には合いませんね ☆
私・蓼純は、焼きの良い森香洲作の還元炎焼成の土筆絵抹茶碗をもっています ☆
「蓼純Collection」の頁に、土筆絵抹茶碗をUPしましたので、ご覧になってください。
写真4 名称欄 「蔦絵茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「蔓と葉は鉄絵、花は白化粧土、高台内無釉、還元炎焼成」
これは、横山香寶(よこやまこうほう)作ではないでしょうか(?)
それ以前に、これは抹茶碗では有りません。
最初に中央公民館で見た時から、違和感がありました。
大先輩の某虫明焼研究・愛陶家と、太田コレクションについて話したことがあります。
「蔦絵茶碗は抹茶碗らしくない」 と私・蓼純が言ったら、同じ絵付けの蓋付小鉢を
もっていると言われ、後日 蓋付小鉢の写真を見せてくれました。
ですから、写真しか見ていないのですが・・・
誰かが蓋を外して、抹茶碗に転用したと言うか、見立てたものだと思います。
火入れ(灰器)を、抹茶碗に見立てるよりは良いですけどね ☆
しかし、抹茶碗は抹茶碗です、見立ては見立てです。
抹茶碗として見た場合、弱いですし、どうしても違和感があります。
「むしあけ」印も、「香洲」印も捺されていないようです。
虫明焼も、雑器には銘(印)を押さないことが多いです。
森香洲作品にも贋作がかなりありますが、
これは 「香洲」印を捺していないので、ニセ森香洲作品では有りません ☆
「森香洲作である」 と、言うのは、太田巌 個人の感想(眼)です。
「横山香寶作ではないでしょうか(?)」 と、言うのは、私・蓼純 個人の感想(眼)です。
逃げるわけではありませんが、太田巌が所有し、手に取って見ているのに対して、私は
ガラス越しに見ているだけなので、轆轤(ろくろ)も土(胎土)も、ほとんど見えていません ☆
写真5 名称欄 梅絵茶碗 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印 香洲印」
材質・技法等欄 「三日月高台、幹・枝は鉄絵、花弁は白化粧土、高台内外無釉」
これは、写真1 松絵茶碗と甲乙つけ難いくらい良いですね ☆
乾山写しです。
写真6 名称欄 「紅葉時雨絵茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印」
「材質・技法等」欄 割高台、鉄絵、高台内外無釉、酸化炎焼成
「むしあけ」印のみですが、これも森香洲作品に間違いありません。
12ヶ月抹茶碗の、10月 紅葉時雨(もみじしぐれ)抹茶碗になります。
写真3 土筆絵茶碗と、写真6 紅葉時雨茶碗は、同じ窯の同じ付近に置いたのでしょうか ☆
火力の弱い場所だったのでしょう、酸化炎ですが低温焼成になっています。
紅葉時雨の絵には、酸化炎 低温焼成の焼きが合っていますが、土筆の絵には合いません ☆
虫明焼は、清風与平(せいふうよへい)、真葛香山などの、京都の名工の指導窯ですが、
森香洲が造った京焼系・虫明焼の作風が、現在へと伝えられているわけです。
森香洲作品を常設展示しているのは、瀬戸内市中央公民館の太田コレクションだけです。
[邑久町史・文化財編] 168ページ 写真1 から写真6 まで見てきました。
写真4 名称欄 「蔦絵茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「蔓と葉は鉄絵、花は白化粧土、高台内無釉、還元炎焼成」
には、大いに疑義があります。 と、言うところで今回は終わります。
虫明焼研究・愛陶家の方々、異論があればご教示 お願いいたします。
寒さは少し和らいできましたが、花粉症の方は、これからの季節が大変ですよね ☆
次回は、169ページ 写真7 岡本英山の抹茶碗から見ていきたいと思います。
「太田コレクションに学ぶ」 シリーズですので、できるだけ早く更新するつもりです ☆
写真4 名称欄 蔦絵茶碗 作者欄 「森香洲」 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「蔓と葉は鉄絵、花は白化粧土、高台内無釉、還元炎焼成」
これは、横山香寶(よこやまこうほう)作ではないでしょうか(?)
それ以前に、これは抹茶碗では有りません。
と、お話いたしましたところ、
某虫明焼研究・愛陶家から、
「蔦絵茶碗と全く同じ絵付けの蓋ものをもっている。むしあけ印のみで、銘は無いが
横山香寶作に間違いない。しかし、自分がもっているものは、口が少し開いている。
太田コレクションのものは、同じ絵付けの香寶作抹茶碗ではないか」
と、コメントをいただきました。
写真4 蔦絵茶碗の作者について、香洲作ではなく、香寶作だ
と、言う 私・蓼純と同意見の方からのコメントです。
私・蓼純は、蔦(葛)絵茶碗の高台(ロクロ)を見ていませんが、
抹茶碗としては、やはり無理があるように感じます。
言葉にするのは難しいですが、抹茶碗としての品格が無いというか・・・
コメントをいただき、ありがとうございました。
〔第38回〕 2011.03.15
前回から、瀬戸内市中央公民館の「太田コレクション」を見ながら、お話をしています。
今回は、「太田コレクションに学ぶ」・第2話です。
緑書は 「邑久町指定虫明焼一覧表」 (「虫明焼一覧表」) からの資料(データ)です。
写真7から11まで 「虫明焼一覧表」の 「作者」欄 岡本英山
岡本英山(おかもとえいざん・1881〜1962年)は、岡山県英田郡(現美作市)出身ですが、
県内の窯はもちろんのこと、県外各地の窯で制作しています。
銘の「英山」は、故郷の「英田の山」に由来しているのでしょうね ☆
大正7年(1918年)に、備前焼(株)・虫明焼工場の設立時に、当工場に従事しました。
その備前焼(株)・虫明焼工場が、大正13年(1924年)に閉鎖したため、虫明を離れますが、
廃窯となっていた虫明焼の復興を依頼され、昭和7年(1932年)に再び来窯します。
その後、亡くなられるまで虫明焼の制作に専念しました。
虫明焼を復興させ、虫明焼の名声を高めるために、大きく貢献した陶工(陶芸家・作家)です。
岡本英山は、繊細・優美な虫明焼に、野性味・力強さを加えたといわれています。
それでは、[邑久町史・文化財編]の169ページの写真です。
写真7 名称欄 「若松絵茶碗」 作者欄 岡本英山 銘記欄 「むしあけ印 英山印」
材質・技法等欄 「灰色がかった土、割高台、コバルトで絵付、絵付は中谷金鵄、高台内外無釉、
中性炎焼成で飴釉風によく熔けている。」
材質・技法等欄には中性炎焼成で飴釉風によく熔けていると記していますが・・・
これは、釉薬(ゆうやく)が完全に熔けていませんね。
中谷金鵄(なかたにきんし)が絵付けをしていますが、残念ながら絵は不鮮明です。
釉薬が熔けず絵が不鮮明なため、瀬戸内市中央公民館の太田コレクションの展示札には、
「秋草金鵄筆茶碗」と、「若松」ではなく「秋草」と記載されています ☆
岡本英山の窯は焼成温度が高いため、大抵は釉薬が良く熔けていますが、
置く場所によっては、温度が上がり難い所もあります。 ☆
写真8 名称欄 「桜絵茶碗」 作者欄 「岡本英山」 銘記欄 「むしあけ印 英山印」
材質・技法等欄 「四方形、割高台、幹は鉄絵、花は白化粧土、還元炎焼成」
撫四方(なでしほう)に造っています。
12ヶ月抹茶碗の、3月の形容です。
前・〔第37回〕の森香洲作・桜絵抹茶碗の説明をした時に、
12ヶ月抹茶碗は、「むしあけ」印のみで、作者銘(印)を入れないのが原則です。
と言ったのですが、この岡本英山の桜絵抹茶碗も、「英山」印が入っているようです。
たまたま 桜の絵付けにしただけで、12ヶ月抹茶碗の離れではないということですかね ☆
この抹茶碗は、あがりがいいですね。
写真9 名称欄 「椿絵茶碗」 作者欄 「岡本英山」 銘記欄 「むしあけ印 英山印」
材質・技法等欄 「コバルトを加えた顔料で下絵、絵付は高橋秋華、高台内外無釉」
高橋秋華(たかはししゅうか・1877〜1952)が、絵付けをしています。
高橋秋華は、岡山市西大寺の出身で、初め石井金陵に南画を学び、後に
京都の山元春挙に学んだ日本画家です。晩年の七年間は、岡山で生活をしています。
したがって、この椿絵抹茶碗は、昭和25年(1950年)頃に制作されたものだと思われます。
写真10 名称欄 「曙茶碗」 作者欄 「岡本英山」 銘記欄 「むしあけ印 英山印」
材質・技法等欄 「割高台、藁灰釉、高台内外無釉」
絵は描かず、白濁釉を掛けています。
正面を指で押さえています。高めの高台です。
「英山」 印の代わりに 「真葛」 印を捺した同形のニセ真葛抹茶碗も造っています ☆
写真11 名称欄 「黒茶碗」 作者欄 「岡本英山」 銘記欄 「むしあけ印 英山印」
材質・技法等欄 「白っぽい土、黒釉、白・黒各10個の瓢箪の絵柄」
おもしろい意匠ですね。
白と黒のコントラストを、上手く使っています。
花弁様のものを描いているのかと思いましたが、瓢箪を、描いているのですか ☆
写真・7.から11までの岡本英山作品には、疑義があるものは一点もありません。
それに、「英山」印を捺した 岡本英山の贋作(ニセ英山作品)は、無いと思います。
写真12 名称欄 「緑釉茶碗」 作者欄 「川崎玉峯」 銘記欄 「玉峯印」
材質・技法等欄 「割高台、無地、高台内外無釉」
最後の写真は、玉峯の抹茶碗です。
高台内に 「玉峯」 印を捺しているようです。
以前「玉峯」のお話をした時に、某虫明焼研究・愛陶家から
「川崎玉峯」ではなく、「河崎玉峯」だと、コメントをいただいています。
河崎玉峯は、地元・邑久町福谷出身の陶工(陶芸家・作家)です。
「玉峯」銘も、「福谷の玉葛山(たまかずらやま)の峯」からとったのでしょうね。
河崎玉峯(かわさきぎょくほう)の作品は極めて少なく、太田コレクションの一点以外は、
私も見たことが有りませんし、玉峯の作品をもっていると言う人の話も聞いたことがありません。
玉峯作品は極めて珍しいものですが、特筆するほどの個性・技能ではないと思います。
と、言うところで今回は終わります。
「蓼純Collection」のページには、岡本英山の水指をUPしました。
次回は、太田コレクションbP3の〆飾絵茶碗から見ていきたいと思います。
〔追記〕
写真7 名称欄 「若松絵茶碗」 作者欄 「岡本英山」 銘記欄 「むしあけ印 英山印」
材質・技法等欄 「灰色がかった土、割高台、コバルトで絵付、絵付は中谷金鵄、高台内外無釉、
中性炎焼成で飴釉風によく熔けている。」
釉薬(ゆうやく)が完全に熔けていません。焼成温度が低かったのでしょうか。
残念ながら絵は不鮮明です。
と、お話いたしましたところ、
某虫明焼研究・愛陶家から、
「若松絵茶碗は、過熱のため釉薬が融け過ぎたのだ」
と、コメントをいただきました。
そうですね、「材質・技法等」欄にも よく熔けている と、記されています。
熔けすぎて絵が飛んだのでしょうか ☆
また、「写真11 黒茶碗は瓢箪菊と言って、瓢箪で菊の花を表している」
と、コメントをいただきました。ありがとうございました。
〔第39回〕 2011.04.15
こんにちは、「太田コレクションに学ぶ」・第3話です。
緑書は 「邑久町指定虫明焼一覧表」 (「虫明焼一覧表」) からの資料(データ)です。
写真13 名称欄 「〆飾絵茶碗」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「白化粧の上に鉄絵。」
この抹茶碗は、「むしあけ」印も 作者の銘(印)も無いようです。
〆飾絵の抹茶碗は、虫明焼十二ヶ月抹茶碗の正月の絵付けにありますが、
この抹茶碗は、虫明焼ではない可能性が高いですね ☆
写真14 名称欄 「古虫明手焙り」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「鉄砂釉、藁灰釉、高台内外と内側下半は無釉。」
そして、
写真15 名称欄 「古虫明手焙り」 作者欄 空白 銘記欄 「高台内に
墨書で濱□見登」
材質・技法等欄 「鉄砂釉、藁灰釉、高台内外と内側下半は無釉。」
写真14 15 手焙り一対です。
雑器ですので、銘(印)は入っていませんが、虫明焼に間違いはありません。
写真15 は、高台内に墨で名前(濱□見登)が書かれているようです。
これは、以前の所有者の方ですね。
鉄釉地で、手の部分に白釉を掛けて変化を付け、口は鉄釉が流れています。
持ち手の白釉が効いています。
古い虫明焼の雑器には、鉄釉を掛けたものも多いです。
釉薬に鉄分がもう少し多いと、黒くなってしまいますが、良い色にあがっています。
この手焙りは、いいですね、私も好きです ☆
次のページに進みます。171ページ写真16 です。
写真16 名称欄 「古虫明燭台」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「灰釉に一部黒釉。」
銘(印)は、有りませが、虫明焼に間違いないです。
灰釉・いわゆる虫明釉を全面に掛けて、中央に鉄釉を流してアクセントにしています。
華麗にして、シンプル。 シンプルにして、華麗です ☆
写真17 名称欄 「古虫明掛分竹絵五合徳利」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「飴釉と藁灰釉の掛分け、藁灰釉部分にコバルトで竹の絵、底と胴下部は無釉。」
虫明雑器の代表・掛分徳利です。
竹の絵を、ゴスで描いています。もちろん銘(印)は有りません。
掛分徳利で現在まで残っているものは一升徳利が多く、五合徳利は殆どありません。
一升徳利より五合徳利の方が使いやすいので、壊れたものが多いのかも知れませんね ☆
掛分徳利については、〔第10回〕 などで、お話しています。
写真18 名称欄 ボウフラ 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「線彫りで引き舟の絵、無釉。」
手のところに「むしあけ」印が入っていますが、「香洲」印は入って無いようです。
これは、釉薬は掛けていません。胴に、曳舟の絵を釘彫りにしています。
私・蓼純も、同じようなボウフラを、もっています。
ボウフラとは、煎茶のお手前で使う湯沸かしです。
素焼のボウフラを使うと、湯がまろやかになるということで釉薬は掛けません。
写真19 名称欄 「古虫明懸花入」 作者欄 空白 銘記欄 空白
材質・技法等欄 「前面に黒褐色の土と白い砂粒を大量にくっつけている。」
銘(印)は、無いようです。
意図したものと違うものが、出来たのでしょうね。
窯の中で何が起こったのでしょうか ☆
これは商品として流通できないもの(失敗作)を、窯跡(物原)から採掘したのだと思います。
写真20 名称欄 「古虫明鉄釉花入」 作者欄 空白 銘記欄 空白
材質・技法等欄 「鉄釉(茶色)の杓掛け、胴下部と底部は無釉。」
銘(印)は、有りません。
厚手の筒花入れに、鉄釉を掛けていますが、下部は土(胎土)を多く見せています。
写真21 名称欄 「胴細水指」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「全面灰釉で、口縁部に鉄釉をかけるが流れている。正面の鉄絵は
滲んで不明、底部無釉。」
一覧表の材質・技法等欄を見ると、「正面の鉄絵は滲んで不明」
と、記されています。
これも、発掘品(失敗作)ではないのでしょうか ☆
作者は森香洲で間違いないと思います。
次ページが、写真・22.古虫明白黒掛流し大花入です。
写真22 名称欄 「古虫明白黒掛流し大花入」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「壺であろう。灰釉の上から黒釉と白釉を杓掛け、口縁部は釉を剥いでいる。
高台内外無釉。」
白釉と鉄釉を、流しています。
この単純明快な美は、野田焼から授かったものなのでしょうか ☆
これは、高さ40.1cm・胴径29.5cmと大きなものなので、通常は展示されていません。
一覧表の「名称」欄は、大花入となっていますが、これは大壷ですね。
もちろん花入れとして使えますが、
口の上部は釉薬が掛かっていませんので、蓋が付いていたものと推測できます。
私・蓼純も大壷をもっていますので、今回は「蓼純Collection」のページに載せます。
残念ながら、私の大壷も蓋がありませんが、釉掛けの勢いのよさを楽しんでください ☆
あっ、たしか蓋の付いている写真が、[増補・改定備前虫明焼]に載っていましたね・・・
[増補・改定備前虫明焼]105ページ第110図と、[備前虫明焼]140ページ第92図です。
いい蓋が付いています、しかし壊れやすそうな蓋ですよね ☆
写真23 名称欄 「竹絵大筒花入」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「鉄とコバルトで下絵、内側と底部は無釉、酸化炎焼成。」
この花入れはいいですね。
一覧表を見るまでもなく、雑器ですから 銘(印)は有りませんが、森香洲作となっています。
森香洲作なんでしょうか、もう少し古いものではないかと思いますが・・・
近くの竹を鉄釉で、遠くの竹をゴスで描いています。
私・蓼純も、筒花入れが大好きです。
私のもっている筒花入れを、以前に「蓼純Collection」のページに数点UPしました。
ご覧になっていただけましたか ☆
今回は、写真13 〆飾絵茶碗は虫明焼ではない(?)
写真23 竹絵大筒花入は森香洲作なのか(?)
と、言うことで、終わらせていただきます。
次回は、174ページの24 古虫明白帆掛絵土瓶 から見ていきたいと思います。
〔追記〕
写真18 名称欄 ボウフラ 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「線彫りで引き舟の絵、無釉。」
手のところに「むしあけ」印が入っていますが、「香洲」印は入って無いようです。
これは、釉薬は掛けていません。胴に、曳舟の絵を釘彫りにしています。
とだけ、お話して、作者については、私・蓼純の意見をスルーいたしましたが、
某虫明焼研究・愛陶家から、
「作者は森香洲ではなく、横山香寶だ」と、コメントをいただきました。
私・蓼純も、このボウフラは横山香寶作かな、とも思います。
しかし、もし生前に太田巌から、このボウフラを見せていただいていても、
「太田さん、これは香洲作ではないでしょう ! 」 とは、言いにくい品物ですね ☆
あと一点、某虫明焼研究・愛陶家から、コメントをいただいています。
写真19 名称欄 「古虫明懸花入」 作者欄 空白 銘記欄 空白
材質・技法等欄 「前面に黒褐色の土と白い砂粒を大量にくっつけている。」
この掛け花入れは、実物を見られた方は分かると思いますが、あがりが非常に悪いです。
そこで、
意図したものと違うものが、出来たのでしょうね。
窯の中で何が起こったのでしょうか ☆
これは商品として流通できないもの(失敗作)を、窯跡(物原)から採掘したのだと思います。
と、お話いたしましたところ、
某虫明焼研究・愛陶家から、
「物原から採掘したものではない。同じもので白釉を掛けたものを見たことがある」
と、コメントをいただきました。
全面に白濁釉が掛かった同じ形のものを想像すると、前面の小石風の意匠は素敵です。
ただ、この太田コレクションの花入れは商品としては売れないでしょう。失敗作です。
買手がいるか、いないかと言うことではなく、私・蓼純が陶工なら廃棄します ☆
コメントをいただき、ありがとうございました。
〔第40回〕 2011.05.16
いい季節になりました。 「太田コレクションに学ぶ」・第4話 です。
今日は、[邑久町史・文化財編]の174ページの写真からです。
緑書は 「邑久町指定虫明焼一覧表」 (「虫明焼一覧表」) からの資料(データ)です。
写真24 名称欄 「古虫明白帆掛絵土瓶」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「イッチン描きで船の絵、内部の2/3、蓋裏、高台内外は無釉、還元炎、
把手は竹製。」
この土瓶は、瀬戸内市中央公民館に展示されていないですね。壊れたのでしょうか。
私・蓼純も、土瓶を数点もっていますが、完品でないものも有ります。
虫明焼は、土瓶も薄作りにしていますので、口、胴、あるいは蓋が壊れやすいです。
イッチン(筒描き)です。
写真25 名称欄 「古虫明擂鉢」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「鉄釉、見込と高台内外は無釉。」
外側と口部に鉄釉を、掛けています。轆轤(ろくろ)は、上手いですね。
現在では、あまり土瓶も擂鉢も使いませんが、昔は生活必需品だったんでしょうね ☆
写真26 名称欄 「古虫明菊屋菊絵徳利」 作者欄 空白 銘記欄 「胴部に
亥百壱番 菊屋の書銘」
材質・技法等欄 「底と胴下部は無釉。」
写真26 この徳利は、見た瞬間に違和感があります。
虫明焼とは思えませんが・・・ ☆
左側のページです。175頁。
写真27 名称欄 「古虫明鉄釉大徳利」 作者欄 空白 銘記欄 「高台内に
鉄釉で 升屋 墨書きで □西 」
材質・技法等欄 「瓢形、鉄釉が黒色と茶色に発色、高台と内側は無釉。」
[邑久町史・文化財編]160ページの法量欄を見ると、高さが29.5cmとなっています。
たしかに、大徳利ですね ☆
鉄釉のみですが、上部が黒く発色し、下部は茶色に明るく変化して景色を作っています。
銘記欄を見ると、高台内に鉄釉で「升屋」と書かれているようです。
私・蓼純も、「虫明浦」 「升屋」 と鉄釉(銹絵)で書いた徳利を持っていますので、
また機会があれば 載せてみたいと思っています。
写真28 名称欄 菊絵菓子鉢 作者欄 「清風与平」 銘記欄 「 琴浦印 、
胴下部に赤絵で 於虫明 清風造 」
材質・技法等欄 「白土、全体は長石釉か。葉・口縁の鉄絵、花の白化粧土は下絵、
赤・緑・青・紫・黄は上絵、高台内外無釉。」
清風与平(せいふうよへい・1803〜1861年)は、弘化4年(1847年)に、虫明に来ました。
備前焼類似事件(ニセ備前焼事件)等があり、廃窯していた虫明焼を復興させるために、
岡山藩の筆頭家老・伊木三猿斎(いぎさんえんさい)が、京都の清風与平を虫明に招きます。
清風与平は、備前焼の無釉焼締めとは全く異なる、京都風の釉薬の掛かった焼きものを、
虫明で半年余り、茶陶を中心に制作しています。
清風与平によって、虫明焼が京風の茶陶として、生まれ変わります。
写真28 菊絵菓子鉢・清風与平作は、「於虫明清風造」と朱で書かれています。
上部(口)は、輪花(りんか)にして、内と外に菊の絵を描いています。
花の色絵は、上絵付けをしますので、二工程増えます。
轆轤(ろくろ)挽き、乾燥、素焼、絵付、施釉、本焼、さらに上絵付、低温焼成です。
この煩わしさ・生産効率の悪さから、虫明焼では上絵付けの技法は、定着していません。
虫明焼は、京都の名工・清風与平、真葛長造(宮川長造)、それに真葛香山(宮川香山)の
指導窯でありながら、京焼の写しそのものではなく、虫明独自の焼きものとして歩みます。
虫明焼を茶陶へと導いたのは、三人の京都の名工たちでした。
清風与平は、虫明での滞在期間が短いため、残っている作品は極めて少ないと言えます。
ですから、この菓子器は貴重な品ですし、虫明滞在中の最優品だと思います。
私が清風与平の虫明焼作品を実際に見たのは、この太田コレクションの菊絵菓子鉢と、
某虫明焼研究・愛陶家所蔵の盃洗、それに私がもっている染付けの菓子器三点だけです。
あっ・・・、 あと一点有りました ☆
岡山美術倶楽部主催のアートフェアに、染付け蓋付の磁器(陶筥)が出たことがありました。
もちろん、清風与平の虫明焼作品と称するものは、何点も見せて頂いていますが・・・
私・蓼純が実物を見て、いいな(本物)と思ったのは、四点と言うことです ☆
某虫明焼研究・愛陶家所蔵の菊絵盃洗は、本焼き段階で窯庇が入っています。
したがって、上絵付けを中止した未完製品です。
でも、鉄釉の菊の茎と葉、白釉の花の輪郭は描いています。
白釉は下絵付けですからね ☆
清風与平の虫明焼作品は少ないので、書籍を見てみます。
[備前虫明焼]口絵・[増補・改定備前虫明焼]38ページ第10図の三島狂言袴水指です。
薄作りで、撫菱(なでびし)にしています。四面に狂言袴が、各一個あるようです。
上部に一本線を彫って、これも三島にしています。
「琴浦」印と、「清風」印を捺しています
[古虫明・現代虫明焼]の6ページに白釉と鉄釉を掛けた、葉形平鉢が掲載されています。
この平鉢もいいですね。これも、「琴浦」印と、「清風」印があるようです。
[日本やきもの集成・9・山陽] の33ページには、染付けの硯屏(けんびょう)が載っています。
竹の絵を染め付けていますが、余白の白がよく生きている良い硯屏です。
「於虫明清風造」と、ゴスで書かれています。
あまり一般的では無い書籍ですが、機会がありましたら、ご覧になってください ☆
[邑久町史・文化財編]の、太田コレクションに戻ります。
清風与平の菓子鉢の左上が、写真29 古虫明掛分四方徳利です。
写真番号の振り方が一種独特です ☆
写真29 名称欄 「古虫明掛分四方徳利」 作者欄 空白 銘記欄 なし、
材質・技法等欄 「胴部は撫で四方形、4種類の釉(黒・鉄砂・藁灰・飴)の掛分け、
高台内外無釉。」
備前焼・保命酒用の角徳利は、平板の粘土を合わせて角にしていますが、
これは、轆轤(ろくろ)で挽いた後に、手(掌)で押さえて、撫四方にしています。
鉄釉と白釉を、掛分けています。
虫明焼の撫四方掛分け徳利は、私も何点か見ていますが、いいものが多いですね ☆
今回は、これで終わりたいと思いますが・・・
24 古虫明白帆掛絵土瓶は、壊れたために展示できないのでしょうか。
それとも、土瓶(日用雑器)だから、展示していないのでしょうか。
もし、展示できる状態であれば、展示していただきたいですね ☆
今回見た中で疑義がある作品は、26 古虫明菊屋菊絵徳利です。
これは、虫明焼ではない。と、私・蓼純は思います。
次回は、太田コレクション30 の、古虫明鉄釉皿から見ていきます。
「蓼純Collection」の頁には、清風与平作の虫明焼・染付けの菓子器(蓋もの)をUPします。
清風与平作の虫明焼作品は、大変にめずらしいものなので、ぜひご覧になってください ☆
〔第41回〕 2011.06.09
今回は、「太田コレクションに学ぶ」・第5話を、お話する予定でしたが、
虫明焼の展示会が、ありますので、お知らせいたします。
平成23年6月9日(木)から6月26日(日)まで
瀬戸内市立美術館(瀬戸内市牛窓町牛窓)、3階ギャラリーで
「黒井家寄贈・虫明焼作品展」を開催中です。
瀬戸内市のホームページ・「まちの話題」(平成23年5月23日)を、
引用させていただきます。
「3月4日に岡山県指定重要無形文化財虫明焼製作技術の保持者に認定された黒井千左さんから
5月20日、自身の作品と父・一楽さん、兄・慶雲さん、長男・博史さんの作品合わせて15点の虫明焼が
市へ寄贈されました。
いずれも、伝統の灰釉が多彩な窯変を見せ虫明焼の特徴をよく表した水差や茶碗などの作品です。
今回の寄贈作品は、6月9日(木)から6月26日(日)まで市立美術館3階
ギャラリーSで公開します。」
と、記載されています。
武久顕也瀬戸内市長は、黒井千左(くろいせんさ・1945生)に感謝状を贈り、
「虫明焼は瀬戸内市の財産、市も文化の継承、振興に力を入れていきます。」
と、約束されたそうです。
黒井ファミリーの、虫明焼展です。
私・蓼純も、本日瀬戸内市立美術館に行き、早速、拝見させていただきました。
いい作品が、展示されていました ☆
今回寄贈された・黒井一楽(くろいいちらく・1914〜1996)など四人の作品は、
瀬戸内市中央公民館の「太田コレクション」にも、展示されていませんので、
虫明焼の貴重な資料だと思っています。
瀬戸内市に寄贈されたものなので、今回行く事が出来ない方も、また機会があると思います。
<展示の黒井千左作 雪中竹文抹茶碗>
この四人について、少しお話をして、今回は終わります。
黒井一楽(くろいいちらく・黒井一男)
大正3年(1914年)生。
昭和8年(1933年)、二代横山香寶(よこやまこうほう)に師事し、作陶をはじめる。
昭和55年(1980年)、岡山県重要無形文化財保持者に認定される。
平成8年(1996年)、逝去。
黒井一楽については、[第21回]でも、お話いたしました。
黒井千左(くろいせんさ・黒井完治)
昭和20年(1945年)生。
昭和41年(1966年)、京都市立工芸指導所を卒業。父・黒井一楽に師事し、作陶をはじめる。
平成3年(1991年)、日本工芸会正会員に認定される。
平成23年(2011年)、岡山県重要無形文化財保持者に認定される。
黒井慶雲(くろいけいうん・本名同じ)
昭和15年(1940年)生。
昭和53年(1978年)、父・黒井一楽に師事し作陶をはじめる。
黒井博史(くろいひろし・本名同じ)
昭和49年(1974年)生。
平成17年(2005年)、京都府立陶工高等技術専門所卒業。
平成18年(2006年)、京都市産業技術研究所を卒業。父・黒井千左に師事し作陶をはじめる。
「蓼純Collection」の頁には、黒井千左の抹茶碗を載せましたので、ご覧になってください。
次回は、また「太田コレクションに学ぶ」に還って、お話していきたいと思います。
〔追記〕
現代作家三人(黒井千左、慶雲、博史)について、簡単な経歴を紹介しました。
もう一人虫明焼現代作家の、簡単な経歴を紹介しておきます。
松本学(まつもとまなぶ・本名同じ)
昭和32年(1957年)生。
昭和54年(1979年)、大阪芸術大学工芸学科(陶芸)卒業。作陶をはじめる。
実父は松本木公(松本繁雄)
松本木公は、岡本英山逝去により窯煙が絶えていた・虫明立場の窯を再興し、
伊木三猿斎愛用の茶室も復興させた。
松本学(まつもとまなぶ)は、この虫明立場窯で制作している。
[目の眼] 百号記念特別号 1985年3月号 には、
カメラ散歩 岡山・虫明・松本 学さん 伊木三猿斉 お庭焼の由緒に薫る
という文を、金田眞一が寄稿している。
〔第42回〕 2011.06.27
前回は、黒井家寄贈・虫明焼作品展を、ご案内いたしました。
昨日で終わりましたが、ご覧になられましたでしょうか ☆
それでは今回は、「太田コレクションに学ぶ」・第5話です。
緑書は 「邑久町指定虫明焼一覧表」 (「虫明焼一覧表」) からの資料(データ)です。
最初は、[邑久町史・文化財編]の176ページの写真30 を見ます。
写真30 名称欄 「古虫明鉄釉皿」 作者欄 空白 銘記欄 なし、
材質・技法等欄 「五弁輪花形、鉄砂釉、高台内外無釉、見込に5つの目跡。」
少し深みが有りますので、中央公民館の展示名札には、「鉄釉鉢」と記されています。
深めの皿・浅めの鉢ですね ☆
口は、輪花(りんか)にしています。
窯に作品を多く入れるために、雑器ですので重ね焼きをします。
したがって、内側(見込み)に、重ね焼きした目跡(めあと)が残ります。
私・蓼純のもっている鉢は、鉄釉ではなく灰釉ですが、大中小の三つ重ねになっています。
太田コレクションの鉢も、三つ重ね鉢だったんだと思います。
三つ重ね鉢は、焼成時も、保存する時も、場所をとらなくて効率がいいです ☆
備前焼は、無釉ですので重ね焼きをする場合も、接触部分に何も置かなくても大丈夫です。
ただ接触部分は、燃焼条件が異なるために、ぼた餅・窯変(ようへん)が出ることが有ります。
これが景色となって喜ばれるために、最近は作為的な窯変の方が多いようです ☆
古伊万里で、見込みではなく、高台の内側(底)に目跡が残っているのは、
焼成時に、底が融けて落ちるのを防ぐための、支柱(ささえ)の跡です。
次にいきます。下の写真31 落雁菓子器です。
写真31 名称欄 「落雁菓子器」 作者欄 「横山香宝」 銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「黒っぽい土、四弁輪花形、緑がかった灰釉、雁は鉄絵、月は
白化粧土、高台内外無釉。」
輪花(りんか)にして、見込みに白釉で月、鉄釉で雁の絵を描いています。
虫明焼水指でお馴染みの、落雁の絵付けです ☆
「むしあけ」印のみですが、二代横山香寶(よこやまこうほう・1869〜1942年)作です。
なお、作者欄に 「香宝」 と記していますが、「香寶」 が正しいです。
旧字体の 「たから」 です。
作品に「香宝」印を捺したものは有りません。すべて「香寶」印です。
二代横山香寶は、地元・虫明の人で名前は、横山喜八と言います。
明治16年(1883年)、森香洲(もりこうしゅう)に師事し、生涯を虫明焼の制作に捧げました。
二代横山香寶の「香」の字は、師・森香洲の「香」の字を、もらったものです。
森香洲が、虫明の地を何度か離れたときも、虫明に滞在し虫明窯を一人で守ってきました。
昭和5年(1930年)、虫明の瀬溝に築窯し、翌年・昭和6年(1931年)に陶業を開始します。
昭和8年(1933年)に、黒井一楽(くろいいちらく)へ、虫明焼の技術を伝えます。
駅伝風に言うと、森香洲から受け取った虫明焼のタスキを、黒井一楽に無事繋ぎました。
二代横山香寶は、釉薬(ゆうやく)の研究にも熱心であった。と、伝えられています。
たしかに、二代横山香寶は、釉薬を上手く掛けていますね ☆
土(粘土)と釉薬の性質を、よく理解・把握していたんだと思います。
次・177ページが、写真32 秋草絵水指・作者真葛長造です。
写真32 名称欄 「秋草絵水指」 作者欄 「真葛長造」 銘記欄 「むしあけ印」 「真葛印」
材質・技法等欄 「秋草はコバルトと鉄による下絵、白っぽい透明釉、底部と蓋受部、
蓋下部は無釉。」
真葛長造(まくずちょうぞう・宮川長造1797年〜1860年)の生家は、京都の真葛ケ原です。
真葛長造は、初代真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)の父親です。
先祖代々、陶器の製造を業とする家に生まれた為、早くから轆轤(ろくろ)に精通しています。
真葛長造は、仁清(にんせい)写しを得意とし、特に香合に名品を残しています。
真葛長造の来虫については、否定説もあるということを、〔第4回〕ですでに述べました ☆
それでは、秋草絵水指を見てみます。
白釉地に秋草を描いた水指です。
蓋の摘みも、全体の形によく合っています。口縁は、波を打たせています。
京都の陶工(陶芸家・作家)らしい、スッキリした いい水指ですね ☆
「むしあけ」印と、「真葛」印を併捺しているそうです。
私・蓼純も、真葛長造(宮川長造)作の、抹茶碗を三点もっています。
「むしあけ」印は有りません。「真葛」印のみです。
高台付近に、踊りベラが効いた良い抹茶碗なので、また機会がありましたら、UPします。
水指の下が、写真33 古虫明双耳壷です。
写真33 名称欄 「古虫明双耳壷」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「鉄砂釉に白釉を杓掛け、底部、胴下部、内側は無釉。」
これも鉄釉を掛けた良いものです。
正面に、釉切れ・火間(ひま)があります。
鉄釉地に白釉を流し掛けして、アクセントにしているところも楽しいです ☆
口上部には釉薬(ゆうやく)が掛かっていません。
もともとは、蓋が有ったのでしょうね。
次のページを見てみましょうか。178ページです。
写真34 名称欄 「古虫明胴四方徳利 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 角丸四方形、鉄砂釉、高台内外無釉。
と、
写真36 名称欄 古虫明蕪形徳利 作者欄 空白 銘記欄 高台内に墨書(不明)
材質・技法等欄 「鉄砂釉、高台内外の一部無釉。」
写真34 古虫明胴四方徳利、36 古虫明蕪形徳利、どちらも鉄釉を掛けています。
質より量、という感じで造ったのでしょうか ☆
その下が、写真・35.落雁水指・森香洲作です。
写真35 名称欄 「落雁水指」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印 香洲印」
材質・技法等欄 「月は彫り、雁は鉄絵、底部無釉。」
「むしあけ」印と、「香洲」印が、捺されているようです。
月に落雁(らくがん)の水指は、虫明焼の看板のようなものです ☆
虫明焼を代表する水指を、虫明焼を代表する森香洲が造っています ☆
月をヘラ彫りにして、雁を鉄釉で描いています。
落雁水指には、結文の共蓋が付くのですが、蓋はないようです。
右側の耳を小さく、左の耳を大きくして、雁の動きを強調しています。
アシンメトリー・非対称の美ですね ☆
今回の太田コレクションについては、どの作品も問題はありません。
しかし、写真32 秋草絵水指・作者真葛長造については、虫明焼研究・愛陶家、並びに
骨董屋さん(古美術店)の一部には、贋作ではないか? と、言う人もいます。
ただ、私・蓼純は、真葛長造作・虫明焼水指として見て、不自然さは全く感じません。
それでは、今回はこのあたりで終わらせていただきます。
「蓼純Collection」の頁には、横山香寶の水指をUPします。
「むしあけ」と、「香寶」の二印を捺しています。
この水指は、良いものです。初代横山香寶(横山喜代次)作です。
二代横山香寶(横山喜八)の抹茶碗、菓子鉢、それに水指もありますので、
また お見せいたします。
今回は初代香寶の水指をみてください ☆
月に落雁(らくがん)の水指以外にも、良い水指が、虫明で多く作られています ☆
〔追記〕
写真32 秋草絵水指・作者真葛長造については、虫明焼研究・愛陶家、並びに
骨董屋さん(古美術店)の一部には、贋作ではないか? と、言う人もいます。
と、お話いたしましたが、
小学館発行の[世界陶磁全集 7] 245ページの354図に、この水指が載っています。
「虫明 銹絵染付秋草図水指 真葛長造作」 と明記しています。
〔第43回〕 2011.07.25
暑中お見舞い申し上げます。
暑くなりましたが、お元気でお過ごしでしょうか ☆
「太田コレクションに学ぶ」・第6話になります。
それでは、[邑久町史・文化財編]179ページです。
雑器が載っています。
緑書は 「邑久町指定虫明焼一覧表」 (「虫明焼一覧表」) からの資料(データ)です。
写真37 名称欄 「古虫明皿」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「高台内外無釉、酸化炎焼成。」
灰釉を掛けた古虫明皿です。
写真38 名称欄 「古虫明おろし器」 作者欄 空白 銘記欄 「底部に墨書きでメラ」
材質・技法等欄 「褐釉、底は無釉、やや甘い酸化炎焼成。」
古虫明おろし器は、鉄釉を掛けています。
おろし器の口径が13cmあるようです。
「底部に墨書きでメラ」と書いているそうです。
よく持ち主の名前を書いたりするのですが、これは値段の暗号ですね。雑器ですから・・・
意匠として、櫛目(くしめ)を入れることもあるのですが、これは実際に、
山葵(わさび)、生姜(しょうが)、あるいは大根を下ろすのに、使ったのだと思います。
写真39 名称欄 「びわ鉢」 作者欄 「山根四山」 銘記欄 「底部に鉄絵具で
島根縣石見國那賀郡江津村大字郷田町工人山根政一郎 岡山縣虫明村 四山」
材質・技法等欄 「全体は白釉、虫明四山銘と樹木はコバルト染付、びわの葉・実は緑釉、
口縁は鉄絵、底は布目、無釉。」
一番下が、写真39 鉢、作者は山根四山(やまねしざん)です。
大きな鉢です、直径は28.3cmあるようです。
びわ鉢。びわって、あの美味しい実のなる・枇杷(びわ)の絵なんでしょうか。
稗(ひえ)の絵、みたいですけどね ☆
「虫明四山」と、内側に大きく銘が書かれています。
一覧表163ページの「銘記」欄を見ると、
底部には、「島根県石見國那賀郡江津村大字郷田町工人山根政一郎 岡山縣虫明村 四山」
と、書いているようです。制作年は入っていません。
山根四山が、島根県石見の人で、山根政一郎であるという事が この鉢だけで判ります。
石見は、銀山で有名な地です、石見銀山遺跡は、世界遺産に登録されていますね ☆
私が知っている島根県のひとは、控えめな方たちが多いのですが・・・
県民性と言うのは有ると思いますが、もちろん島根県人が全員控えめなハズもありません ☆
山根四山のような、例外の方もいたんでしょうね ☆
私・蓼純が、山根四山の作品を見たのは、これ一点だけですが、
いわゆる虫明陶とは、かけ離れた作品ですね ☆
山根四山の作品を数点見た人の、感想が載っている雑誌があります。
[阪急美術]という雑誌に、太平逸人が、「蟲明燒餘談(むしあけやきよだん)」
と、いう題名で著いています。
[阪急美術] 第19号 昭和十四年四月発行から、引用させていただきます。
「山根四山の作は、岡山で某家所藏のものを見た事があるし、又其外でも二三を見た事が
あつたが、虫明焼として變わり種のやうに見受けられ、茶湯の方には不向のやうに思つた」
と、著かれています。
やはり、山根四山の作品は、茶陶・虫明焼にあって、異質のものだったようです ☆
池上千代鶴(いけがみちよづる)も、山根四山作品について、 [虫明焼の記録]に、
「花瓶に黄色の薬の上に青色を二色かけた葡萄を添えたものを一・二点見たことがある。」
と、著いています。この花瓶も虫明陶らしくないもののようです ☆
次の頁を開いてください、180ページの写真40 手桶水指です。
写真40 名称欄 「手桶水指」 作者欄 「岡本英山」 銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「灰釉と飴釉の掛分け、底部と蓋受部、蓋の下側は無釉。」
鉄釉と灰釉の掛分けです。銘(印)は、「むしあけ」印のみのようです。
名工・岡本英山は、水指もいろいろな形のものを造っています。
この手桶形の水指も、いいですね ☆
その下が、写真41 古虫明胴四方大徳利です。
写真41 名称欄 「古虫明胴四方大徳利」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「灰釉に飴釉杓掛け、底無釉。」
撫四方(なでしほう)にして、灰釉地に、鉄釉を肩に流しています。
この大徳利は、古虫明ではなく岡本英山作だ、と言う人もいますが、どうでしょうか。
古虫明がもっている、重厚さは無いようですね ☆
[増補改定備前虫明焼]の、175ページ第227図を見てください。
岡本英山作の、撫四方徳利が載っています。
確かに太田コレクション写真41 古虫明胴四方大徳利と、同じ造りですので、
古虫明ではなくて、岡本英山作だと私・蓼純も思います。
次です。左側の皿が、写真42 古虫明掛分皿です。見事な掛け分けですね ☆
写真42 名称欄 「古虫明掛分皿」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「白釉と鉄釉の掛分け、高台内外無釉。」
良い皿です。一覧表の「法量」欄を見ると、径が32cmあるようです。
これ以上 良い皿は、私・蓼純も見たことがありません。
次に行きます。次頁の写真43 古虫明菓子鉢です。
写真43 名称欄 「古虫明菓子鉢」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「五弁輪花形、灰釉の上から鉄釉杓掛け、高台内外無釉、
赤味を帯びた酸化炎焼成、見込みに6つの目跡。」
今までに何度か同じ形のものが、でてきました。
灰釉地です。正面に鉄釉を流し掛けしています。
この鉄釉は、蛇足だったかもしれませんね ☆
雑器の鉢ですので、目跡があります。
菓子鉢に見立てています。
真中が、写真44 四方菓子鉢です。
写真44 名称欄 「四方菓子鉢」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印 香洲印」
材質・技法等欄 「柳と鷺の嘴・足は鉄絵、鷺の頭・体は白化粧土、高台内外無釉。」
これは、写真43とは違って、菓子鉢として造っています。
「むしあけ」印と、「香洲」印があるようです。
轆轤(ろくろ)引きした後に、撫四方(なでしほう)にしています。
鉄釉で柳、見込みは白釉で白鷺(しらさぎ)を描いています。
白釉が、思った以上に熔けたのでしょうか。
白鷺が平面化して、ずいぶんと稚拙な、白鷺になってしまいました ☆
いい菓子鉢なのですが・・・
一番下です、写真45 古虫明鉄釉鉢です。
写真45 名称欄 「古虫明鉄釉鉢」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「鉄砂釉に白釉杓掛け、高台内外無釉、やや甘い焼け、
金重陶陽箱書き。」
「金重陶陽箱書」と記されています。
なぜ、金重陶陽(かなしげとうよう)に箱書きを、頼んだのか、よく判りませんが・・・
箱書きは、ともかくとして、いい鉢ですね。
鉄釉地に、白釉を流し掛けしています。
古い虫明焼は、鉄釉地にアクセントで、白釉を掛けたものが多いです。
虫明窯には、野田焼きの陶工(陶芸家・作家)が何人か、従事していた時期があります。
そのため、野田焼の影響を多く受けています。
釉薬の流し掛けも、野田焼の陶工(陶芸家・作家)が、伝授した技法ですね。
今回は、このあたりで終了いたします。
「蓼純Collection」の頁には、なにを載せたらいいかな・・・・・
そうですね、写真44 四方菓子鉢と同じ感じの、森香洲作の四方菓子鉢をUPしてみます。
太田コレクションの菓子鉢は、柳の絵付けですが、私の菓子鉢は、松の絵です。
絵付けは、橋本松陵(はしもとしょうりょう・1871〜1939年)です。
「松陵 守」の、釉銘(鉄釉のサイン)が有ります。
太田コレクション・写真44 四方菓子鉢も、橋本松陵の絵付けだと思います。
次回は182ページから見ていきます。
〔追記〕
山根四山の釉銘(サイン)は、[邑久町史・文化財編]179ページの写真が一番良いですが、
[備前虫明焼]190ページにも釉銘と、刻銘を拓本に採ったものが載っています。
また、[虫明焼の記録]56、57ページにも、刻銘の拓本が載っています。
これが実物大なんでしょうね。刻銘の大きさから、作品の大きさが想像できます ☆
〔また追記〕
山根四山の作品がもう一点、[増補改定備前虫明焼]に載っています。
103ページ第107図・平手です。
[備前虫明焼]では、175ページ第134図です。
高台内に、住所と名前(山根政一郎)を入れています。
大きさ(サイズ)は載っていませんが、高台内に住所と名前を鉄釉で書いているわけですから、
小さいサイズのものではない事が分かります。
「発掘品 生焼け」と、記されていますので、失敗作を、物原から掘り出したようです。
焼きものは、焼きが一番ですからね ☆
〔第44回〕 2011.08.25
「太田コレクションに学ぶ」・第7話です。
太田コレクションも、主だったものは済みましたので、少〜し 急いで見ていきます ☆
[邑久町史・文化財編]の、182ページを開いてください。
緑書は 「邑久町指定虫明焼一覧表」 (「虫明焼一覧表」) からの資料(データ)です。
写真46 名称欄 「古虫明油入・受台 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 (油入) 「白っぽい土、明るい灰釉。」
(受台) 「赤味がかった白土、糸切底、底無釉、酸化炎焼成。」
写真47 名称欄 「古虫明燈明皿・受台 作者欄 空白 銘記欄 「受台下部に墨書(不明)」
材質・技法等欄 (燈明皿) 「緑がかった灰釉、下部のほとんど無釉、還元炎焼成。」
(受台) 「やや赤っぽい灰釉、面取り部分以下無釉、やや甘い酸化炎焼成。」
写真46 古虫明油入・受台、その下が写真47 古虫明燈明皿・受台です。
生活必需品でしたので、どこの窯でも同じようなものを造っています。
写真46 の急須の用な形をしたものは、油入ではなく、秉燭(ひょうそく・灯火器)です。
口の部分から灯芯を出して、油を吸っている芯に火を灯します。
ただ、虫明焼なのでしょうか、少し違和感がありますね ☆
一番下が、写真48 一合徳利です。
写真48 名称欄 「一合徳利」 作者欄 「岡本英山」 銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「灰釉と鉄釉の掛分け、高台内外と胴下部は無釉。」
銘(印)は、「むしあけ」印のみですが、岡本英山作の徳利に間違いありません。
一対です、掛分けも良い感じにあがっています。
胴のヘラ目を強調しています。
持ちやすくしているのでしょうか。
写真49 名称欄 「茶入」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「糸切り、青味がかった黒釉、底と胴下部は無釉。」
182ページの左上です。番号の打ち方が独特ですので、やや混乱します ☆
銘(印)は、「むしあけ」印のみです。
森香洲作ですか・・・ 森香洲作なのでしょうか・・・
写真50 名称欄 「古虫明油入」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「灰釉に一部飴釉、底と胴下部は無釉」
写真50 古虫明油入です。
この油入は、燈明の油入ではなく、鬢付け油(びんつけあぶら・髪油)入れです。
写真で見る感じより、ずっと小さいものです。高さは、6.7cmですね。
写真51 名称欄 「古虫明杓立」 作者欄 空白 銘記欄 「墨書きでカヤ」
材質・技法等欄 「花立てか、鉄分の多い土、首にヘラ目2本、糸切り、飴釉に
藁灰釉、底無釉。」
古虫明杓立です。銘(印)は有りません。
材質・技法等欄には、「花立てか、」 と、記載されています。
骨董屋さん(古美術店)で、仏花器を杓立てとして、売っている事が有りますが、
これは、もともと杓立てとして造られたものだと思います。
上半分・口の部分の、白い釉薬(ゆうやく)は、虫明焼ではあまり見ない釉薬です。
酒津焼の感じも、有りますね ☆
中央が、古虫明手付お歯黒入です。
写真52 名称欄 「古虫明手付お歯黒入」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「飴釉と鉄釉、胴下半から底は無釉。」
第4話でお話しました写真24 古虫明白帆掛絵土瓶と、この古虫明手付お歯黒入は、
なぜか、瀬戸内市中央公民館の太田コレクションに、展示されていません。
なぜ、展示していないのでしょうか(?)
写真53 名称欄 「古虫明茶入」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「珍味入れか、黒釉、身口縁、高台内外は無釉。」
164ページの「材質・技法等」欄には、「珍味入れか」と、記載されています。
そうですね、茶入れでは、ないでしょうね。
鮎の捕れるところだったら、ウルカ入れですが、塩入れかも知れません ☆
本体と蓋が、違うようにも、見えますが・・・
高台は、上手く挽いています。
そして、左下が写真54 古虫明茶入です。
写真54 名称欄 「古虫明茶入 銘大海」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「刷毛目に透明釉、高台内外無釉。」
左下の写真54 古虫明茶入 銘大海です。
古虫明(?)、茶入(?)、 すこーし引っ掛かりますが、どんどん行きます ☆
次のページを開いてください。184ページの、写真55 が古虫明菊絵燭台です。
写真55 名称欄 「古虫明菊絵燭台」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「裏側の仏手柑と十文字は透かし、菊と仏手柑はコバルト染付。」
違和感のある虫明焼が続いたので、こういう虫明焼を見せていただくと、安心できます ☆
ゴスで菊の絵を描いています、手馴れた絵付けですね。姿もいいです。
下の写真56 が、古虫明向付です。
写真56 名称欄 「古虫明向付」 作者欄 空白 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「赤っぽい土、蕎麦釉、下部外無釉。」
厚作りですが、いい向付です。
鉄釉を掛けています。
土(粘土)も良い土を使っていますし、轆轤(ろくろ)もしっかりしています。
次の写真57 は、左上です。
写真番号の振り方に なかなか慣れません ☆
写真57 名称欄 「古虫明三合徳利」 作者欄 空白 銘記欄 「墨書きでノミ」
材質・技法等欄 「鉄絵、口縁部の釉を剝いでいる、底と胴下部は無釉。」
古虫明三合徳利です。
古虫明でしょうか、虫明焼ではなさそうですね ☆
口の部分は無釉ですね。徳利ですが、重ね焼きをしたのでしょうか(?)
虫明焼の徳利は、このような窯の入れ方はしません。
それに、形も虫明徳利らしくないですよね ☆
私・蓼純も、虫明焼の徳利を もっていますので、1〜2本寄贈してもいいのですが、
そうすると太田コレクションではなくなってしまいます ☆
左・185ページの写真58 が、古虫明芋型一升徳利です。
写真58 名称欄 「古虫明芋型一升徳利」 作者欄 空白 銘記欄 「墨書(不明)」
材質・技法等欄 「肩に3本の櫛目、飴釉がかった黒釉、高台内外無釉」
鉄釉を掛けた徳利です。
その下、写真59 酒杯です。
写真59 名称欄 「酒杯 松に帆掛舟(2) 松に雪(1) 梅鉢(1) 蘭(1) 作者欄 「森香洲」
銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「鉄絵 還元炎焼成」
何れも、森香洲作なのですが、
二客は同じですが、ほかの三客は少しづつ絵付け、形が違います。
五客揃いではないようですが、いい酒盃です。
次のページを開いてください。186ページ。一番上の写真60 色絵菊の絵湯呑です。
写真60 名称欄 「色絵菊の絵湯呑」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「上絵は緑・桃・赤・金。高台内外無釉。」
一覧表を見ると、「むしあけ」印のみです。
虫明焼で、上絵付けをしたものは、めずらしいです。
作者「森香洲」と記載されていますが、森香洲作ではないでしょうね ☆
湯呑と言えども、作者の個性が出ます。
この湯呑には、香洲らしさは全くありません ☆
写真61 名称欄 「黒胡麻玉露茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「内1つにむしあけ印」
材質・技法等欄 「半磁土、粽絵のものは鉄絵、印のあるものだけ高台内無釉」
これも、作者は森香洲と記載されています。
よく判りません。
森香洲作では無い、と言う意味では有りません。よく判らないと言うことです ☆
一番下が、写真62 刷毛目玉露茶碗です。
写真62 名称欄 「刷毛目玉露茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「刷毛目風白土を塗ってから灰釉、高台内無釉、酸化炎焼成風。」
写真61 黒胡麻玉露茶碗もそうですが、太田巌(おおたいわお)は、
煎茶碗の大きなものを玉露茶碗と言っているようです。
むしろ玉露茶碗は、煎茶碗より小振りなものを、言うのではないのでしょうか(?)
これも、ずいぶん大きい玉露茶碗です。
作者は、森香洲と、記載されていますが・・・
なにか、野暮ったいものです。
次のページ・187ページ。一番上の写真63 風景絵煎茶茶碗からです。
写真63 名称欄 「風景絵煎茶茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「半磁土、鉄絵」
写真64 名称欄 「花煎茶茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「1客には あさ日 字、鉄と白土で下絵。」
写真65 名称欄 「古虫明煎茶冬茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「鉄と白土で下絵、高台内外無釉。」
「
いずれも、 「むしあけ」印 のみですが、森香洲作品に間違いありません。
五客揃いでないのが残念ですが・・・
写真65 の古虫明煎茶冬茶碗も、4客しか有りませんが、いい煎茶碗ですね。
写真64 の絵は、花の絵何ですか(?)
ページを開いてください、188ページの一番上が、写真66 刷毛目玉露茶碗です。
写真66 名称欄 「刷毛目玉露茶碗」 作者欄 空白 銘記欄 「虫明」印
材質・技法等欄 「赤土、刷毛目、高台内外無釉。」
写真59 から65 まで一覧表の「作者」欄は、全部「森香洲」と記載されていましたが、
この写真66 刷毛目玉露茶碗は、「作者」欄が空白になっています。
銘(印)は漢字の、「虫明」印のみですが、これは森香洲作です。
ただ、玉露茶碗ではなく、酒盃でしょうね ☆
中央の写真67 酒盃です。
写真67 名称欄 「酒杯 梅絵 富士と三本松原」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印」
材質・技法等欄 「鉄とコバルトの下絵、外部無釉 鉄とコバルトの下絵、高台内外無釉。」
白釉を、掛けています。二客ありますが、一対ではありません。大きさ、絵付けが違います。
「むしあけ」印のみ のようです。
一番下の、写真68 急須・茶碗を見ます。
写真68 名称欄 「急須・茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 「むしあけ印 鉄絵で 五瓢 銘」
材質・技法等欄 「鉄と白土で下絵、高台内外、蓋内側は無釉。」
「むしあけ」印と、鉄絵で「五瓢」銘と、「銘記」欄に記載されています。
森香洲作で、絵付師が「五瓢」ですか(?)
五瓢というのは、地元・虫明の小野田五瓢(おのだごひょう・小野田千代次)です。
五瓢は、岡本英山(おかもとえいざん)のものにも、絵付けをしているのですが・・・
英山作では ないのでしょうか。
塔の絵が、描かれています。
瀬戸内市邑久町北島、上寺山・餘慶寺(うえてらさん・よけいじ)の三重塔でしょうか。
左側189ページが、番外 水盤です。
次回はこの水盤を見て、「太田コレクションに学ぶ」を、完了したいと思います。
「蓼純Collection」のページには、森香洲の酒盃を三点UPしました。
小さな酒盃の中の、大きな轆轤(ろくろ)技術を見ていただければ、と思います。
〔追記〕
写真58 が、古虫明芋型一升徳利です。 と、お話しいたしましたところ、
某虫明焼研究・愛陶家から、
「この徳利は、虫明焼ではない ! 」 と、コメントをいただきました。
土(胎土)とか、高台を見たいところですが、虫明焼として見て、違和感はないと思います ☆
もう一点、写真60 色絵菊の絵湯呑について、
作者「森香洲」と記載されていますが、森香洲作ではないでしょうね ☆
と、お話しいたしましたところ、
某虫明焼研究・愛陶家から、
「この湯呑は、高台も見たことがあるが、森香洲作だ ! 」 と、コメントをいただきました。
確かに私・蓼純は、ガラス越しに見ただけです。
所有されていた・寄贈者の太田巌、並びに、某虫明焼研究・愛陶家の、森香洲制作説に、
反論するつもりはありません。
しかし、改めて見ても、この湯呑には香洲らしさは、私・蓼純には、全く感じられません ☆
コメントをいただき、ありがとうございました。
〔第45回〕 2011.10.03
「太田コレクションに学ぶ」は、今回で最終話にするつもりでしたが、予定を変更いたします。
「太田コレクションに学ぶ」・第8話・ラス前です ☆
実は、大先輩である・某虫明焼研究・愛陶家に、貴重な収集品を見せて頂きました。
すでに、〔第37回〕・「太田コレクションに学ぶ」・第1話で、お話した
168ページの、写真4 蔦絵茶碗を、もう一度見てください。
緑書は 「邑久町指定虫明焼一覧表」 (「虫明焼一覧表」) からの資料(データ)です。
写真4 名称欄 「蔦絵茶碗」 作者欄 「森香洲」 銘記欄 なし
材質・技法等欄 「蔓と葉は鉄絵、花は白化粧土、高台内無釉、還元炎焼成」
第1話で、これは、横山香寶(よこやまこうほう)作ではないでしょうか(?)
それ以前に、これは抹茶碗では有りません。
と、お話いたしました。
某虫明焼研究・愛陶家所蔵の、蓋付の小鉢(蓋物)の写真を撮らせていただきました。
ここに、写真を載せます。
蓋ものだ ということを ご覧ください。
誰かが蓋を外して、抹茶碗に見立てたものだと思います。
蓋つき向付でしょうか。
蔦(葛)を鉄釉(銹絵)で、そして花を白釉で描いています。
良い向付ですね、蓋を外して抹茶碗として使いたくなる気持も分かります ☆
太田コレクション写真 4 蔦絵茶碗と、某虫明焼研究・愛陶家所蔵の蓋物とを、比べて見てください。
同じ絵付け、そして同じ作りです ☆
数字で比較するのも無粋ですが、大きさ(サイズ)を見てみます ☆
太田コレクション写真4 蔦絵茶碗 高さ8.7×口径11.2×底径4.9cm
某虫明焼研究・愛陶家所蔵の蓋物 高さ8.5×口径11.2×底径5.0cm
どうですか。ほぼ同じサイズです。
なお、太田コレクションのサイズは、[邑久町史・文化財編]の「法量」欄からの数字です。
某虫明焼研究・愛陶家の蓋物は、蓋を外した状態で、私・蓼純が計測しています。
太田コレクションの写真 4 蔦絵茶碗は、蓋物として生まれたことを検証いたしました ☆
見立て抹茶碗だと言うことが、判って頂けたと思います。
作者については、第1話で、お話したとおり、森香洲では無く、横山香寶だと思います。
もう一点、振り返ってください。
〔第38回〕・「太田コレクションに学ぶ」・第2話の、写真10 曙茶碗・作者岡本英山に戻ります。
[邑久町史・文化財編]の、169ページの左上です。
写真10 名称欄 「曙茶碗」 作者欄 「岡本英山」 銘記欄 「むしあけ印 英山印」
材質・技法等欄 「割高台、藁灰釉、高台内外無釉」
「むしあけ」印と、「英山」印が捺された、白濁釉の抹茶碗です。
これは、既にお話したとおり、岡本英山作の虫明焼抹茶碗で、何の問題も有りません。
しかし、某虫明焼研究・愛陶家が、同じ作りの抹茶碗をもたれています。
岡本英山作ですが、この抹茶碗には、「真葛」印が、捺されています。
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)の虫明焼作品、と言われる内の、99パーセントは贋作だ。
と、以前にも何度か、お話いたしました。
某虫明焼研究・愛陶家所蔵の白濁釉抹茶碗は、岡本英山作のニセ真葛香山作品です。
岡本英山は、ニセ真葛香山作品、それにニセ森香洲作品も造っています。
某虫明焼研究・愛陶家所蔵の、岡本英山作・真葛銘(印)、抹茶碗の写真を載せます。
某虫明焼研究・愛陶家も、ニセ真葛香山抹茶碗であることは、もちろんご存知です ☆
このHPに、岡本英山作・ニセ真葛香山抹茶碗として載せることも、了解していただきました。
それでは、二つの抹茶碗を、見比べてください。
〈 写真10 曙茶碗 「むしあけ」印 「英山」印 〉
〈 写真10 曙茶碗と同形の 英山作ニセ真葛抹茶碗 「真葛」印 〉
ニセモノを造るときは、本物に似せようとして ぎこちなさ、ロクロのたどたどしさが出ますが、
このニセ真葛抹茶碗は、全くそのようなことは有りません。
英山自身の作品に、 「英山」 印を捺す代わりに 「真葛」 印を捺しただけです。
見た感じは、全くと言っていいくらい同じです。
こちらも、サイズを比較してみます ☆
太田コレクション写真10 曙茶碗・作者岡本英山 高さ8.9×口径11.8×底径4.6cm
曙茶碗と同形の 英山作ニセ真葛抹茶碗 高さ8.9×口径11.7×底径4.6cm
ほぼ同じサイズです。
これも、[邑久町史・文化財編]の「法量」欄の数字を、使わせていただいています。
某虫明焼研究・愛陶家の抹茶碗は、私が測っています。
岡本英山が使用した、ニセ真葛香山の銘(印)を見てもらいたかったのですが、残念ながら
「真葛」印を薄く捺しています。
岡本英山は名工であったため、悪質な業者から贋作を依頼されることも多かったのでしょう。
岡本英山作品に、「真葛」印を捺した、某虫明焼研究・愛陶家所蔵の抹茶碗は、
本物の真葛香山作品を見ないで、ニセ真葛香山作品を造ったことが判ります。
自分自身(岡本英山)の作品に、「真葛」印を、捺しているだけです ☆
本物を真似て造ったのでは無いため、ぎこちなさ、たどたどしさ等は全く有りません。
本物を見ないで造った・ニセ真葛香山作品は、ぎこちなさ、たどたどしさは全く無いのですが、
本物を見ながら造った・ニセ森香洲作品には、当然、ぎこちなさ、たどたどしさが出ます。
岡本英山は名工ですが、ニセ森香洲作品には、当然の事ながら作為が見えます。
これは、私の父が岡本英山から直接聞いた話ですが、
「香洲の抹茶碗(ニセ森香洲作品)を造るのは、時間ばっかり掛かって採算が合わない」
と、言っていたそうです。
本物を意識しないで自由に造った・ニセ真葛香山作品の方が、採算が合ったのでしょう ☆
はい、プライスも真葛香山のほうが、森香洲より高いですからね ☆
後半は、太田コレクションから、少し離れた お話になってしまいました。
次回は、「太田コレクションに学ぶ」・第9回・最終話です。
今度は、本当に最終話です ☆
「蓼純Collection」のページには、真葛香山作の鹿絵抹茶碗を載せます。
真葛香山・虫明焼作品は99パーセントがニセ物です。
しかし、この鹿絵抹茶碗は、残り1パーセントの本物です ☆
真葛香山の磁器作品については、おもに菊渓幽人(きっけいゆうじん)が絵付けをしていますが、
この鹿絵抹茶碗鹿は、真葛香山自身の絵付けだと思います。
銘(印)は、「むしあけ」印のみですが、真葛香山が虫明焼で使った印です。
希少な真葛香山・虫明焼抹茶碗を、ぜひご覧になってください。
それから、黒井千左(くろいせんさ)親子展があるようです。
「今月の抹茶碗」のページで、案内しています。
〔追記〕
上記の蓋物を見せて頂いた時に、某虫明焼研究・愛陶家からお聞きしたのですが、
今年(平成23年)の4月に、虫明焼作家・森香泉が、病で亡くなられたそうです。
心から、哀悼の意を表します。
森香泉(もりこうせん・森澄夫)
昭和6年(1931年)、虫明に生まれる。
昭和47年(1972年)、虫明焼の作陶を始める。
会社員からの転身で、陶芸の道へ進むのは比較的遅かったのですが、日本総合美術展優秀賞、
大賞、京都新聞社賞などを受賞し、また、シンガポール日本芸術家交流展に出品した作品は、
シンガポール国立博物館に、永久収蔵されています。
森香泉は、昭和、および平成の虫明焼の名声を高め、茶陶を中心に最後まで制作し続けました。
煎茶碗、抹茶碗、水指などの名品を、数多く残しています。
[古虫明・現代虫明焼]の最後のページを、森香泉の雅品・鉄釉水指が飾っています。
「伝統的虫明焼をして釉薬と土の研究を続け、よい作器を造っていこうと思っております。」
と、森香泉がおっしゃっている通り、奇を衒う様なところは、全くありませんでした。
誠実・実直な人柄であり、虫明焼の作陶に真剣に取組まれていました。
また、西大寺ふれあいセンターの、虫明焼教室で指導、普及にも力を注いでいました。
私・蓼純も、西大寺ふれあいセンターで、森香泉の指導を受けた一人です。
〔また追記〕
<写真は某虫明焼研究・愛陶家所蔵の蓋物、「むしあけ」印あり>
と、記載しましたところ、
このホームページを見てくださっている方から、
「太田コレクションの抹茶碗は、むしあけ印が無いが、この蓋物は、むしあけ印を押しているのか。」
と、コメントをいただきました。
はい、そのとおりです。某虫明焼研究・愛陶家所蔵の蓋物には、「むしあけ」印を押しています。
なお、この蓋物は、某虫明焼研究・愛陶家も、一客だけしか持たれていませんが、
五客揃いだったものだと思われます。
五客揃いのものを、何組か造ったと思いますが、五客ある向付のうち、一客、あるいは、
二客にのみ押印する場合もあるので、太田コレクションのものが、某虫明焼研究・愛陶家の蓋物と、
同じ組(五客)の離れである可能性も、ゼロではありません ☆
コメントをいただき、ありがとうございました。
〔第46回〕 2011.11.09
こんにちは、「太田コレクションに学ぶ」・第9話、いよいよ最終話です ☆
<写真は[邑久町史・文化財編]から引用>
[邑久町史・文化財編]189ページの、番外 水盤を見てください。
写真68 の次が、なぜ写真69 水盤ではなく、番外 水盤なのでしょうか ☆
緑書は 「邑久町指定虫明焼一覧表」 (「虫明焼一覧表」) からの資料(データ)です。
写真番外 名称欄 「水盤」 作者欄 「(貼紙) 伝伊木□□虫明興禅寺住僧作」
銘記欄 「(刻銘) 天保十二年辛丑九月雲□ 」
材質・技法等欄 「灰釉に口縁部緑釉、底部無釉、酸化炎焼成」
一覧表の「銘記」欄を見ると、「天保十二年辛丑九月雲子」と、彫られているようです。
天保十二年・辛丑(かのとうし)は、西暦1841年です。
この制作年と、雲子銘を拓本に撮った写真が、
[備前虫明焼]の22ページと、[増補改定備前虫明焼]の215ページに載っています。
一覧表の「作者」欄を見ると、「伝伊木□□虫明興禅寺住僧作」の貼紙があるようです。
虫明興禅寺住僧作の貼紙があると言うことは、興禅寺住僧の作銘が、「雲子」なのでしょうか。
そういえば、お坊さんは、「雲」という字が好きですよね ☆
「雲子」銘(印)のものは、他に花入れを見せていただいたことがあります。
この水盤と、花入れの二点だけしか、「雲子」銘(印)のものは、残って無いと思います。
備前焼類似事件(ニセ備前焼事件)などで、虫明焼は天保13年(1842年)に廃窯しました。
この水盤が造られたのが天保12年(1841年) ですから、虫明窯が廃窯になる前年です。
この水盤は、厚手に造っていますが、釉薬を掛けていて、備前焼とは全く異質のものです。
緑釉を淵に掛けて、その緑釉の一部を流しています。
緑釉は銅釉(タンパン)でしょうか。それ以後の虫明焼では、銅釉はあまり使われていません。
はい、同じ緑釉の掛かったものを、見たことがあります ☆
昨年の6月に、「虫明温故館準備室中間報告展」という、漢字のなが〜い名前の展示会が、
瀬戸内市中央公民館で、開催されました。
その時に緑釉の花入と、水盤が出ていました。
同じ窯、同じ時代に作られたものなのでしょうか(?)
<写真は「虫明温故館準備室中間報告展」の展示品から>
太田コレクションの水盤は、[増補・改定備前虫明焼]215ページ・第34図に、
「故・池上千代鶴氏蔵」として、載っています。
以前の所有者は、[虫明焼の記録]の著者・池上千代鶴だったようです。
池上千代鶴から、太田巌に伝わったんですね ☆
虫明焼研究・愛陶家の、ビッグネームが並びました ☆
以上が、「太田コレクション」の全作品です。
「太田コレクションに学ぶ」と題して、瀬戸内市中央公民館の「太田コレクション」を見ながら、
私・蓼純が、9話に渡って、拙いお話をして参りました。
「太田コレクション」を、誹謗中傷するつもりは全くありません。
「太田コレクションに学ぶ」であって、「太田コレクションを斬る」ではありません ☆
太田コレクションを通じて、改めて虫明焼を楽しませていただきました。
[邑久町史・文化財編]167ページ・「邑久町指定虫明焼一覧表」の欄外にある注意書きに、
「作者・名称等若干疑わしいものもあるが、寄贈者の遺志でもあり、あえて変更しなかった。」
と、書かれています。
そこで、私のみた感想(眼)を、好き勝手に、そして、無責任に述べさせていただきました ☆
好き勝手に、無責任に、というのは、虫明焼半可通の特典(?)です ☆
「これは、虫明焼ではないだろう。」 「作者が違う。」と、お話したものも何点か有ります。
しかし、それはあくまでも、私・蓼純個人の感想(眼)です。
明治13年発行の岡山県勧業年報には、虫明窯に陶工(陶芸家・作家)が13人いた。
と、記載されています。
このころは、他県から来た陶工(陶芸家・作家)の出入りも多かったと思います。
虫明焼として見たときに、違和感を覚えるものもあったのですが、
虫明窯に来た・他県の陶工(陶芸家・作家)が、虫明で実際に焼いたものかもしれません。
[邑久町史・文化財編]の写真と、瀬戸内市中央公民館に展示されている作品を見ました。
しかし、ガラス越しであり、判りにくいものもいくつかあります。
蓼純の知ったかぶりだ と、捉えていただけたら、 と思います ☆
天国で寄贈者・太田巌が、
「蓼純よ ! まだまだ、だな ! 」 と、笑っておられるかも知れません ☆
「太田コレクションに学ぶ」では、[邑久町史・文化財編]の写真を引用させていただきました。
写真の引用許可を下さった、瀬戸内市教育委員会に、心からお礼を申し上げます。
また、このページを見てくださっている方から、たびたびコメントをいただきました。
私・蓼純と同意見のものについては、原則として載せていませんが、
コメントに対する私・蓼純の回答・考え方を、〔追記〕していますので、ご覧になってください。
特に某虫明焼研究・愛陶家からは、毎回コメントをいただき、貴重な写真資料も、
送付していただきました。ありがとうございました。
コメントを頂けなかった貴方の意見も、お会いした時に、また聞かせてください ☆
無事? 終わりました。次回の予定はありませんが、また適当に、何かお話したいと思います。
私は、「雲子」銘(印)のものは、もっていませんので、
「蓼純Collection」のページは、更新せずに、真葛香山の抹茶碗を引き続き載せています。
ちょうど、岡山・吉兆庵美術館で、真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)展が、あるようです。
「今月の抹茶碗」のページで、紹介しています。
〔追記〕
「今月の抹茶碗」のページでも紹介しましたが、黒井千左展が開催されました。
「記録は残る。記憶は消える。」と言いますから、メモ代わりに〔追記〕しておきます。
黒井千左展は、岡山県指定重要無形文化財虫明焼の保持者に認定されたのを記念して、
瀬戸内市立美術館で平成23年12月1日から平成24年1月9日まで開催されました。
〔第47回〕 2012.01.06
お元気でしょうか。2012年は、いい年になってくれたらいいのですが・・・
「今月の抹茶碗」のページで、既にご案内のとおりですが、
岡山・吉兆庵美術館で、真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)展が開催されています。
企画展 「真葛香山展 ―世界を驚かせた焼物― 」
会期は、平成23年11月11日(金)〜平成24年2月7日(火)までです。
残り1か月と、なってしまいました。
もう、ご覧になられましたか ☆
岡山・吉兆庵美術館で、真葛香山展が開かれるのは、今回で3回目です。
私・蓼純も、今回は一度しか行っていませんが、過去の展示には、5〜6度行ったでしょうか。
私が行った5〜6度とも、極めて入場者が少なかったですね ☆
岡山で、良い焼きものを見られる数少ない機会ですので、ぜひ行ってみてください。
今年が辰年ということで、龍の形の水注や、龍の絵の花入れも多く展示されていました。
1月28日(土)の午後2時から、学芸員による最後のギャラリートークもあるようです。
私・蓼純も昨年、ギャラリートークを聴かせて頂きました。
どこの美術館・博物館でもですが、学芸員の方は、よく勉強されています。
それに、私のように思いつきでしゃべったりしません ☆
順序だてて、よく纏まった説明をしてくださいます。
京都から虫明へ、何人かの陶工(陶芸家・作家)が、来ています。
その中でも、真葛香山は、最も虫明焼に影響を与えた人です。
真葛香山が、明治44年に雑誌の取材を受けました。
雑誌に、真葛香山が京都から虫明に来て、虫明を去った経緯(いきさつ)を、話しています。
その雑誌の内容が、[帝室技藝員 眞葛香山]に載っています。
雑誌名は、[美術新報]・明治44年7月1日付発行です。
したがって、孫引きになっていることをご了承ください。引用させていただきます。
明治元年に備前の虫明村と言うところの窯へ古器模造の教師として聘せられた。
これは元から懇意であった備前の附家老で三万五千石の知行で伊木長門守という人があったが、
至極の茶人で「香山、ぜひとも虫明にきて窯を改良して貰いたい」との事で行くようになった。
そのうち、薩州の小松帯刀さんは私が備前へ行った事を聞いて「備前へ行く程なら薩摩の
苗代窯を改良して欲しい」と私の京都の留守宅へきて懇々と言われたが、すでに備前に行った後
だから仕方がない。私はそれを聞いて備前まで出掛けた位だから、むしろ薩摩まで行った方が
面白い。どうかして薩摩に行って見ようと思って、井上兼斉と云う人に内相談をすると、「なかなか、
御上で御免は出まい。親が大病とか、何とか理由をつけなくて」と云はるるので只一人の叔母が
大病という事にしてお暇を願ったが、話の如く、なかなか容易に許されない、再三、再四、泣く様に
して訴願しても駄目であった。が急に何かの行違いで伊木長門守は大不忠者となって藩士が伊木
の邸を取り囲んだ騒動が持ち上がったから、これ幸いと、私は備前を夜逃げ同様にして京都に帰っ
てしまった。
と、書かれています。
虫明に来たのは、明治元年に教師として聘せられた。と話していますが、虫明を後にしたのは、
騒動があった時に、夜逃げ同様にして京都に帰った。としか話されていません。
虫明窯を去ったのは、制作年の入った作品から、明治3年の春頃と推測されていました。
制作年の入った作品というのは、岡山県重要文化財の真葛作楠渓下絵染付手付樽(酒器)です。
あっ、漢字が並び過ぎましたね ☆
「まくずさく なんけい したえ そめつけ てつきだる」です ☆
写真が有ります、モノクロですが、[備前虫明焼]103頁と、 [増補改定備前虫明焼]67頁、
カラー写真は、[邑久町史・文化財編]151〜153頁に載っています。
この染付樽に、「午初春於虫明陶竃」と染め付けています。
午年・明治3年の正月、と言うことですね。
この染付樽から、真葛香山が虫明を離れたのは、明治3年の春であろう、と言われていました。
今回紹介するのは、他人様のブログで恐縮ですが、真葛香山の虫明焼最後の作品ではないか、
という染付樽を、英国で発見されたそうです。(このHPでは以後、「英国染付樽」と言う。)
ブログ名は、「目指せ!眞葛博士」 眞葛香山 横浜眞葛焼
「宮川香山 虫明時代最後の作品!? (1)&(2)」 ブログ2011.12.30&31付
この新発見の染付樽に、呉須(ゴス)で、「庚午之桐月」と書いているようです。
庚午(かのえうま)は、明治3年です、桐月(とうげつ)とは、7月の事だそうです。
したがって、この新発見の染付樽から、真葛香山が虫明を去ったのは、明治3年の春ではなく、
明治3年の7月までは虫明にいた、という新説が真説になるかもしれません ☆
ただし、ブログ・「目指せ!眞葛博士」 眞葛香山 横浜眞葛焼には、
製作年月が記されたその作品は、果たして虫明で製作されたものなのか?
現在、さまざまな方々のお力をお借りして、精査を行っています。
と、記されています。
今回は、真葛香山の虫明窯滞在期間について、新説(真説)を取り上げてみました。
池上千代鶴(いけがみちよづる)、桂又三郎(かつらまたさぶろう)が、生きて居られたら、
きっと大喜びされた事と思います ☆
〔追記〕
このホームページを見てくださっている方から、
岡山県重要文化財の真葛作染付手付樽に「午」とだけ書いているのは、不自然ではないのか、
この当時だと「庚午」と書くのが普通である。この染付樽は後年に制作した贋作ではないのか。
と、コメントをいただきました。
今回は、英国で制作年が入った真葛作染付樽の発見という事実を、お話したのですが、
予期せぬ角度からのコメントです ☆
私・蓼純も、明治3年頃であれば、「庚午」と書くのが通常だったと思います。
これは、書いた本人(真葛香山)に聞いてみないと判りません。
私が想像するのは、書き終わった後に、年号を書くのを忘れたのに気付いたか、あるいは、
年号を追加しようとした為に、「庚午」と書くスペースが無く、「午」とのみ書いたのではないか
と、思っています ☆
真葛香山の虫明焼作品は、ほとんど全部がニセモノだ、とお話ししている私・蓼純が言うのも
なんなのですが、岡山県重要文化財の真葛作染付手付樽は、本物で間違いないと思います。
岡山県重要文化財ですしね ☆
コメントをいただき、ありがとうございました。
真葛香山の虫明焼最後の作品ではないか、という染付樽を、英国で発見。
ブログ名は、「目指せ!眞葛博士」 眞葛香山 横浜眞葛焼「宮川香山 虫明時代最後の作品!?
(1)&(2)」 ブログ2011.12.30&31付。
ただし、ブログには、その作品は、果たして虫明で製作されたものなのか?
現在、さまざまな方々のお力をお借りして、精査を行っています。
と、記されていることを紹介いたしました。
私・蓼純は、ブログの写真を見た瞬間に、真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)の虫明焼作品に
間違いない、と思ったので、このホームページで、紹介させていただきました。
眞葛博士の精査された結果が、その後のブログ・「目指せ!眞葛博士」に載っています。
この作品は、初代宮川香山が虫明を去る間際に製作した作品とみてよいだろうという結論に到りました。
と、書かれています。
詳細は、「宮川香山 虫明時代の作品 岡山へ」ブログ2012.06.25付を、ご覧になってください ☆
本物が、本物と認められて、本当に良かったです ☆
本物を、ニセモノと判断したり、ニセモノを、本物と認定されるのは、困りますからね ☆
〔またまた追記〕
上でお話いたしました、
虫明での真葛香山作品・楠渓下絵の「染付手付樽」と、英国で発見された「英国染付樽」の写真が
[図録・宮川香山]・岡山県立美術館の10頁60図、61図に載っています。
「染付手付樽」と「英国染付樽」の写真を並べて比較していますので、非常に判りやすいです。
〔まだ追記〕
虫明での真葛香山作品・楠渓下絵の「染付手付樽」と、英国で発見された「英国染付樽」の写真は、
〔またまた追記〕で お話したとおり、
[図録・宮川香山]・岡山県立美術館の10頁60図、61図に載っています。
他に、[図録・収蔵作品選 2018]・岡山県立美術館の228頁312図、313図にも載っています。
[図録・収蔵作品選 2018]・岡山県立美術館の228頁を ここに転載させていただきます。
〔第48回〕 2012.03.05
一雨ごとに、春らしくなってきますね ☆
「今月の抹茶碗」のページには、桜が咲きました。
後楽園の桜が咲くのも、もう少しです ☆
今回は、真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)が、虫明窯で焼いた抹茶碗をご覧ください。
虫明焼・真葛香山作品は、ほとんど全部がニセモノだ、という事を何度もお話しいたしました。
真葛香山が、虫明で使った「むしあけ」印は一種類だけだ、という考えも変わっていません。
[備前虫明焼]は101頁を、[増補改定備前虫明焼]では63頁を開いてください。
東京国立博物館蔵の、瓢箪(ひょうたん)形茶入れが載っています。
「むしあけ」印が、鮮明に写っていますね ☆
これが、真葛香山が虫明窯で捺した、唯一の「むしあけ」印です。
それでは、この「むしあけ」印と、「真葛」印が捺された抹茶碗をご覧ください。
<写真は、某虫明焼研究・愛陶家所蔵の、虫明焼・真葛香山松毬絵抹茶碗>
本物の虫明焼・真葛香山作品は、極めて少ないです。
美術館等でも、書籍でも、まず見ることはできません。
と、言いましたが、実は本に載っています ☆
[増補・改定備前虫明焼]の76頁の、松毬(まつぼくり)絵抹茶碗です。
写真映りが良くありませんが、この抹茶碗は、さすが真葛香山と言える最高の出来です。
しかも、虫明焼の基本のようなすばらしい抹茶碗です。
絵付けは鉄釉で、仁清意の松毬を描いています。
釉薬(ゆうやく)は、灰釉を掛けています。
「どうだ!いいだろう!」 と自慢したいところですが、私・蓼純の所有では有りません ☆
この抹茶碗の持ち主である、某虫明焼研究・愛陶家に、写真を撮らせていただきました。
ホームページに写真をUPすることも、了承していただいています。
本の写真はモノクロですが、こちらはカラー写真ですので、雰囲気は掴みやすいと思います。
見込み(内側)には、釉薬(ゆうやく)の掛け外し・釉切れしたところが一カ所あります。
釉薬を掛けるときに、釉薬が土(胎土)に添わないことは、よくあります。
もう一度掛ければ良いわけですが、釉切れは釉切れで良し、としているのでしょうね ☆
真葛香山の最初の弟子・森香洲(もりこうしゅう)の抹茶碗にも、釉切れした作品が有ります。
私・蓼純が持っている森香洲の抹茶碗のなかにも、見込みに釉切れしたものがあります。
真葛香山も、弟子の森香洲も、釉切れには、あまりこだわっていなかったのだと思います。
それから、この抹茶碗は中までは通っていませんが、高台内に窯疵があります。
私・蓼純のもっている真葛香山の水指も、窯疵があります。
土(胎土)の耐火度を越す位の、熱効率の良い窯を造ってしまったのかもしれません ☆
「真葛香山は、窯疵には、こだわらなかった」と、何かの本に載っていましたね。
釉切れも、窯疵も、自然に発生したアクセント、と見ているのでしょうか。
見にくいかもしれませんが、銘(印)の写真も載せておきます。
ただ、銘(印)は紙に捺すわけではなく、土(粘土)に捺しているわけです。
同じ作者が、同じ銘(印)を捺しても、土(粘土)の種類が異なつているとか、
轆轤(ろくろ)挽きした後の、土の固さ・乾き方によっても、当然印影は違ってきます。
しかも、銘(印)を捺した後に、乾燥、素焼き、そして本焼きをするわけです。
過程に変化があるわけですから、印影の感じが、多少違うのは避けられないところです。
それでも、真葛香山が虫明窯で使った「むしあけ」印なので、参考にしてください ☆
桂又三郎(かつらまたさぶろう)も、この「むしあけ」印を、絶対的なものと信じていたようです。
その証に、桂又三郎著・[備前虫明焼]は、この「むしあけ」印と「真葛」印を表紙にしています。
183頁には、真葛香山銘款として、銘(印)の特徴も記載しています。
ただ真葛香山に限らず、どのような作品でも、判断・評価しようとした場合の銘(印)の評価点は、
100点の内の10点未満。すなわち10%程度にしてくださいね ☆
焼きものですから、焼きもの自体から良さを感じて頂けたらと思います。
作品の良さ、つまり自分の感覚が90%で、あと押さえの10%が銘(印)だと思います。
他人の意見にも耳を貸せる方なら、自分の感覚を85%、同好者の意見と銘(印)の計を15%、
という感じで、判断・評価していただけたら、いいと思います ☆
私・蓼純も、この抹茶碗を見せて頂いた時に、手に取らなくても真葛香山作だと直感しました。
その後で、銘(印)を見て、確信しました。
非常に希少な、真正な虫明焼・真葛香山作品ですので、私・蓼純の所有品では有りませんが、
このホームページをみて下さっている方のために、掲載いたしました。
と、いう事で今回は終了いたします。
〔第49回〕 2012.03.25
本日、某虫明焼研究・愛陶家から電話をもらって知ったのですが、岡山県立博物館に、
真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)の虫明焼抹茶碗が、いま展示されています。
前回、「本物の虫明焼・真葛香山作品は、極めて少ないです。」
「美術館等でも、書籍でも、まず見ることはできません。」
と、言いましたが、本物の虫明焼・真葛香山作品(個人蔵)の展示です ☆
しかも、離れではなく、真葛香山作の十二か月抹茶碗の揃いです ☆
十二か月抹茶碗は、絵付け、形を変えて、季節に合った12の抹茶碗を一組としています。
はい、「今月の抹茶碗」の頁には、森香洲作の、十二か月抹茶碗を順次載せています ☆
でも、森香洲ではなく、真葛香山の十二か月抹茶碗ですので、極めて極めて珍しいものです。
真葛香山作のものには、絵付けが異なる十二か月抹茶碗があります。
「今月の抹茶碗」とは、違う絵付けですので、さらに楽しんくださいね ☆
ぜひ、岡山県立博物館に、お出かけ下さい ☆
春季展 特別陳列 「茶席のたたずまい」 です。
岡山県立博物館の所在地は、岡山市北区後楽園1-5です。
後楽園入口の向かいですね ☆
開催期間は、2012年2月23日(木曜日)〜4月22日(日曜日)ですので、
ひと月過ぎてからの、情報になってしまいました。でも、ちょうど良い気候になりました ☆
以下は、岡山県立博物館のホームページから、引用させていただきます。
「茶席のたたずまい」
今回の展示では、備前焼、虫明焼を中心とした器、茶道具を茶事の進行にあわせて紹介します。お茶の
世界では「侘び」「寂び」の精神と共に、様々な茶会でとりあげられた備前焼、また茶陶として命を吹き込
まれ、誕生した虫明焼の優品をご覧いただきます。同席した人々が道具や掛け物を鑑賞し、香りや味わ
いを共有して心を通わせるひとときを持つ茶席は、様々な茶道具によって彩られました。絵画・書蹟・陶
芸・木竹工・金工・染織・建築などの美術工芸品、花や香、水や炭灰といった自然物、そしてなにより人の
美しい所作や心ざしによって総合的に完成される空間といえます。展示資料を通じて、自然と人、人と造
形がおりなす茶席のたたずまいの風流を感じながら、春の一日、茶の湯の香りに触れていただければと
思います。(原文のまま)
出不精の私・蓼純も、今日聞いて、今日、早速いってきました ☆
前回紹介した、松毬絵抹茶碗には、「釉薬の掛け外し・釉切れしたところが一カ所あります。
真葛香山は、釉切れには、あまりこだわっていなかったのだと思います。」と、お話ししましたが、
今回展示の十二か月抹茶碗のうち、見込みに掛け外し・釉切れした抹茶碗が4、5碗あります。
と言う事は、真葛香山は釉切れを気にしないどころか、むしろ釉切れを楽しんでいたようです ☆
この十二か月抹茶碗は、当然展示ケースに入っていますので、銘(印)は確認できません。
もちろん、銘(印)を見なくても、真葛香山作品と判断できるものなのですが・・・・・
でも、十二か月抹茶碗の展示ケース内に、桂又三郎著・[備前虫明焼]の183頁に載っている
「むしあけ」印と、「真葛」印のコピーが置かれていました。
したがって十二か月抹茶碗に、この「むしあけ」印が捺されている事は容易に推測できます ☆
[備前虫明焼]の表紙にもなっている、「むしあけ」印と、「真葛」印です。
例の、東京国立博物館蔵の、瓢箪(ひょうたん)形茶入れ、に捺している銘(印)ですね ☆
ただ、「真葛」印は捺されてなく、「むしあけ」印だけを、捺しているのではないかと思います。
まだ感動が覚めていない状態ですが、会期終了までに、もう一度行ってみたいと思っています。
そうですね、「真葛」印のことは、ギャラリートークがある日に行って、お尋ねしてみます ☆
今日は、後楽園の桜も蕾でしたが、次に行く時は満開になっているでしょうね ☆
この頁に、岡山県立博物館展示の、真葛香山・虫明焼十二か月抹茶碗の写真を載せることが
出来ませんので、前回掲載の松毬絵抹茶碗・真葛香山・虫明焼を引き続き載せておきます ☆
<写真は、某虫明焼研究・愛陶家所蔵の、虫明焼・真葛香山松毬絵抹茶碗>
〔追記〕
岡山県立博物館に展示の十二か月抹茶碗には、桂又三郎著・[備前虫明焼]の183頁に載っている
「むしあけ」印が捺されている事は容易に推測できます ☆
ただ、「真葛」印は捺されてなく、「むしあけ」印だけを、捺しているのではないかと思います。
と、お話しいたしました。
このことについて、岡山県立博物館の学芸員の方に、お尋ねしたところ、
「むしあけ」印と、「真葛」印を併押している。
なお、印は桂又三郎著・[備前虫明焼] 183頁記載の「むしあけ」印と「真葛」印である。
との回答をいただきました。
〔また追記〕
十二か月抹茶碗は、真葛香山(宮川香山)虫明滞在中の代表作であり、茶陶虫明焼の象徴ですので、
各時代の陶工(陶芸家・作家)が写してきました。
その十二か月抹茶碗(A)は、正月・「注連飾り」、二月・「梅」、三月・「桜」、・・・・・の絵付けです。
A十二か月抹茶碗は、「むしあけ」印のみで、「真葛」印はありません。
今回岡山県立博物館に展示の十二か月抹茶碗(B)は、A十二か月抹茶碗とは絵が異なった
組抹茶碗ですので、絵付けなどについて少し記しておきます。
〔追記〕にも書きましたように、B十二か月抹茶碗には、「むしあけ」印と「真葛」印が併押されています。
* 正月は、「槌」の絵、見込みにも絵が続いている。椀形。切高台。「槌」の絵付けは、正月の最初の卯の
日に邪気払いとして、奉った卯槌と呼ばれる槌に由来しているのだと思います。
高さ7.6p、口径11.5p(大きさは[研究報告]33から。以下同じ)
* 二月は、「土筆」の絵。見込みに小さい釉薬の掛け外し(火間)。椀型(呉器)。切高台。一カ所、手(指)
で押さえている。
高さ7.5p、口径11.4p
* 三月は、「柳」の絵。風を表しているのか、白土で刷毛目を入れている。見込みに火間がある。椀形。
切高台。
高さ7.2p、口径11.3p
* 四月は、「杜若」の絵、これも刷毛目。見込みにも杜若の葉。平茶碗。手(掌)で押さえている。角高台、
切高台。
高さ5.8p、口径12.2p
* 五月は、「兜」の絵。見込みにかなり大きな火間がある。平茶碗。これは撫四方。絵付けの「兜」は、五
月・端午の節句の兜飾りに由来しているのでしょうね。
高さ6.3p、口径12.3p
* 六月は、「海老」の絵、見込みにも海老のヒゲが続いている。平茶碗だが、編笠という形。切高台。「海
老」の絵付けは、算用数字の「6」が、尾を丸めたエビの形に似ているからだろうか。違うでしょうね ☆
高さ6.0p、口径13.5p
* 七月は、「朝顔」の絵、花を白釉で描く、見込みに朝顔の蔓(つる)が入っている。椀形。一カ所手(指)
で押さえている高さ7.0p、口径11.3p
* 八月は、「雁」の絵、見込みにも雁の羽が続いている。椀形。茶だまりに、はっきりしたヘラ目をつけて
いる、火間がある高さ8.4p、口径11.2p
* 九月は、「栗」の絵、これも見込みに少し絵が続いている。椀形。一カ所手(掌)で押さえたところがある
。A十二か月抹茶碗と同じ絵は、九月の絵付け・「栗」だけです。
高さ7.5p、口径12.1p
* 十月は、「大根」の絵、見込みにも絵が続いている。撫四方。窯変が出ている、火間がある。高台は三
か所カット。
高さ7.5p、口径12.5p
* 十一月は、「松笠松葉」の絵。垂直には立ち上がってないが筒形(胴締形)。内外に、窯変・ピンホール
(御本)が多く出ている。
高さ9.4p、口径9.2p
* 十二月は、「水鳥」の絵。水面の波を表しているのか、白土で刷毛目を入れている。塩笥形。
窯変・ピンホール(御本)が出ている。見込みにはかなり大きな火間。
一カ所、手(指)で押さえている。絵付けの「水鳥」は、俳句でも冬の季語。
高さ7.3p、口径10.2p
以上です。全体的にコンパクトというか、小さめの抹茶碗です。絵付けは、十二か月全部鉄絵です。A十
二か月抹茶碗は、彫り三島にしたものが三点(五月、六月、十二月)、ありますが、このB二か月抹茶碗は、
彫り三島はありません。釉薬は松灰釉ですので、深みのある緑色にあがっています。本来の虫明焼の色
あいです。展示ケース内ですので、高台は見にくいですが、さすがです。土味もいいです ☆
四月、五月、六月が平抹茶碗です。
切高台は、正月、二月、三月、四月、六月、それと十月の六碗ですね。十月の抹茶碗は、三か所切って
います。
この十二碗が、二段重ねの木箱に納められています。
上段が一月から六月、下段が七月から十二月となっています。
小さめに造られた抹茶碗ですので、十二碗入りの木箱も、森香洲の木箱と比べると、
二周り位小さい感じです ☆
〔またまた追記〕
県博に展示された十二か月抹茶碗、真葛香山などについての研究報告を、鈴木力郎学芸員が
発表されました。抹茶碗の写真と解説、「むしあけ」印、「真葛」印の写真も載っています。
岡山県立博物館発行の[研究報告]33・平成25年3月です。虫明焼の非常に良い資料なのですが、
市販はされていませんので、公立図書館などでご覧になってください ☆
なお、[研究報告]33に、真葛香山作、十二か月抹茶碗の大きさ(高さ、口径)が書かれていますので、
上の〔また追記〕に追記させていただきました ☆
〔第50回〕 2012.06.24
梅雨のなか、紫陽花が映える季節になりました ☆
前回紹介いたしました岡山県立博物館展示の真葛香山(まくずこうざん・宮川香山)造の
虫明焼十二か月抹茶碗は、ご覧になられましたでしょうか ☆
虫明焼・真葛香山作品は極めて少ないので、新たな虫明焼・真葛香山作品を
私・蓼純のホームページ(HP)を含めて、すべてのHPで紹介することはないと思っていました。
しかし、〔第47回〕 2012.01.06、英国で発見された染付酒樽、
〔第48回〕 2012.03.05は、某虫明焼研究・愛陶家所蔵の松毬絵抹茶碗、
そして、〔第49回〕 2012.03.25に、岡山県立博物館に展示された十二か月抹茶碗
と、3回続けて虫明焼・真葛香山作品を紹介いたしました。
そこで、〔第50回〕 も、虫明焼・真葛香山作品・・・
と、言いたいところですが、そうそう虫明焼・真葛香山作品が、有るわけはありません ☆
虫明焼・真葛香山作の十二か月抹茶碗を紹介した後では、ほかの抹茶碗の、お話をしても、
聞き劣りしてしまいますので、今回は、抹茶碗と交差しない虫明焼の雑器を紹介してみます。
皆様が ご存知のように、虫明焼は茶陶を中心に焼いています。
しかし、中心ではない雑器にも、面白いものがあります ☆
以前に掛分徳利、平鉢(皿)、筒花入れを、紹介いたしましたので、今回は片口(かたくち)です。
片口というのは、その名の通り、片方にだけ注ぎ口のある器(鉢)です ☆
若い方は知らないと思いますが、昔は、酒とか醤油は木製の大きな樽に入れていました。
それを、小出しにするために使ったのが、片口です。
つまり、大きな木樽(あるいは陶磁器製の大きな樽)の、底に近い部分に木の栓をしています。
その木の栓を緩めて、片口に受けます。
片口に受けた酒とか醤油などを、更に小分けしやすいように 口が付いているわけです。
現在は、片口も出番が無くなり、本来の使われ方をされません。
いい趣味とは言えませんが、塗り蓋(漆蓋)をつけて、水指に見立てたものもあります。
剣山を置くと、花入れとしても使えたりします。
私は、焼きものそのものが好きなので、見ているだけ、触れているだけでいいのですが・・・
私・蓼純は、こんな日用雑器でも、十分に楽しめる安上がりの男です ☆
片口も鉢ではあるのですが、口があるというだけで、まったりとした感じがいいですね ☆
下に、同じ窯で焼かれたであろう、二つの片口の、写真を載せてみます。
変化した釉薬(ゆうやく)の違いを、みてください。
片口は、日用雑器(=安価)ですので、窯のなかで良い位置には置かれません。
また、窯内のスペースを無駄にしないため、片口の中に、ほかの品物を入れて焼きます。
そのために、片口など日用雑器の見込みには、目跡(めあと)が残っています。
<写真は、虫明焼片口・左からA、B 大きさ、A、B共 径22cm・高さ12cm>
<写真は、二枚共、虫明焼片口・B>
Aの片口は、比較的良く焼けています。酸化焼成されたものです。
Bの片口は、その近くでは有るが、火の通りが悪い場所に置かれていたのだと思います。
空気の流れが悪いため、温度が上がりきらず、釉薬が融けきっていません。
完全な酸化焼成にならず、還元炎で焼かれた部分もあり、窯変(ようへん)がでています。
釉薬が融けていないのも、窯変が出るのも欠点ですが、それが愛おしかったりします ☆
この二つの片口は、土(粘土)も、釉薬も同じなのですが、窯から出た時は全く違っています。
よく言われるところの、窯の中の神秘性ですね ☆
少し興味深い話をしますと、当時の窯(古虫明)では、薪を焚くため、
空気の流れが悪いところに置いた品物が、酸素の量が少ないために還元焼成されます。
そして、空気の流れが悪いところに置いた品物に、窯変が出やすかったのです。
いまは、ほとんどが熱効率の良い電気窯で焼くので、すべての作品が酸化焼成されますが、
窯変を出すために、最後にエルピーガスなどを注入して、あえて還元炎にします。
ですから、現在の窯(新虫明)は、
空気の流れが悪いところに置いた品物が酸化焼成され、
空気の流れが良いところに置いた品物が、エルピーガスなどによって還元焼成されます。
つまり、新古虫明焼が同じように(?)還元焼成されていても、過程(条件)は全く逆なのです。
どうですか、少し楽しい話でしょう ☆
今回は、虫明焼の片口を見ながら、窯変(酸化焼成、還元焼成)の、お話をしてみました。
虫明焼の焼成温度は、約1,250℃と高温です。
酸化焼成のほうが還元焼成よりも、温度が上がりやすいのは当然のことですので、
古い虫明焼の窯では、基本的には、酸化焼成させようとしたのだと思います。
陶工(陶芸家・作家)は、還元焼成、窯変が出やすい場所を、経験から判断していたようです。
手轆轤(ろくろ)、あるいは蹴轆轤(けろくろ)から、電動轆轤になったことにより、
同じようなものを造っても、キレイなだけで、味のある・人を魅了する作品が出来なくなった。
と、以前に何度か、お話いたしました。例えば、〔第20回〕 2008.07.12.です ☆
手轆轤、蹴轆轤の回転が一定でないように、
薪を焚いて温度を上げることは、電気窯と違い作品への炎の当たり方が一定ではありません。
今の作品(新虫明)は、キレイですが、なぜか人を引き付ける魅力がないのは、
土(粘土)の違いなのでしょうか、轆轤の違いなのでしょうか、窯(炎)の違いなのでしょうか、
それとも、陶工(陶芸家・作家)の技・・・
大変失礼いたしました。今回はこのあたりで終わります ☆
「蓼純Collection」の頁には、片口を写した、森香洲(もりこうしゅう)作の抹茶碗を載せました。
抹茶碗として、生まれたものです。見立てでは、ないですよ ☆
どうぞ、ご覧になってください ☆
〔追記〕
今回は、窖窯とか登り窯などの古窯と、電気窯で焼いた違いを、窯変(酸化焼成、還元焼成)について、
お話をしました。
このホームページを、見て下さっている方(備前焼の収集家)から、
「電気窯との最も大きな違いは、酸化焼成とか、還元焼成などではなく、灰が降って、自然釉が掛かるか
どうかだ」 と、コメントをいただきました。
私・蓼純も、薪で焚いた古い窯(窖窯など)と、電気窯の違いが、窯変(酸化焼成、還元焼成)だけだ、
とは決して思っていません ☆
ただ、今回は窯変(酸化焼成、還元焼成)についての、お話をさせていただきました ☆
灰が降って、自然釉が掛かることも、電気窯との大きな違いだと思います。
古備前の壺などで、灰が降って、自然釉が掛かり良い景色を造っているものも知っています ☆
薪を焚くのと電気窯の焼成方法は全く違うわけですから、いろいろ良い点、悪い点があると思います。
コメントをいただき、ありがとうございました。
ついでに、言いますと、壺の場合は自然釉が、掛かって良い景色を造ることが多いのですが、
抹茶碗の場合は、見込み、特に茶だまりに灰が降りて、悪い結果が出る場合が多いようです ☆
〔また追記〕
虫明焼は茶陶だけではなく、雑器も有るということで、片口をお見せいたしました。
虫明焼を感覚(感性)で理解されている方には、自然に受け止めてもらっています。
ただ、「むしあけ」印、「作者」印を重視される方のなかには、虫明焼ではない。
と、おっしゃる方がいらっしゃいました ☆
全く問題のない品物(片口)を、お見せいたしましたので、私・蓼純も驚いています。
雑器ですので、銘(印)はありません。箱書きはありません。鑑定書はありません。
虫明焼を感覚(感性)で理解されている方には、なんでもない事ですが、
銘(印)、箱書きなどを重要視される方には、受け入れにくかったようです ☆
〔またまた追記〕
窯の中の神秘性(窯変)について、黒井一楽(くろいいちらく)は、「虫明焼」の講演をされたときに、
「グリーンとか赤とにでているのはいわゆる窯変で、自然の現象でその時によりまして色が変化してでる
わけですから、どの色にしようという始めから希望などはもてないわけです。窯の焼の自然ですから焼く
のが楽しみと不安です。」
[岡山の自然と文化11] から引用させていただきました。
〔まだ追記〕
〔またまた追記〕で、[岡山の自然と文化11] から、
窯変(ようへん)について、黒井一楽の講話を引用させていただきました。
[岡山の自然と文化7] には、
上西節雄(うえにしせつお)が、「岡山の焼物」についての講演をされたときに、窯変について
「技術が悪いのかわざとしているのか片身替わりになっているものが割合多いですね。
こちら側は青く向こう側は黄色っぽいわけで、数奇者はこれを窯変と喜ぶのかもしれませんが、
青磁だったら完全に失敗品です」
と、話されています。
私・蓼純は、自然に窯変が出ているものが好きですが、
当然ながら 人によって好き嫌いはありますからね。